創ることと生きること~好きなフレーズⅢ
創造性とは何か,といったとき,ヴァン・ファンジェの定義,
①創造者とは,既存の要素から,彼にとっては新しい組み合わせを達成する人である
②創造とは,この新しい組み合わせである
③創造するとは,既存の要素を新しく組み合わせる(組み替える)ことにすぎない
が有名だが,いまいちピントこなかった。あるとき,川喜田二郎が,
創造性とは,本来ばらばらで異質なものを意味あるように結びつけ,秩序付けること。
と書いているのを見つけて,ようやく腑に落ちた記憶がある。つまり,意味あるように組み替える,あるいは新しい意味が見つかるような組み合わせを見つける,ということだ,と。自動的に見つかるわけではなく,エジソンではないが,普通の人はもうこれだけやったんだ,と思うところに来て,やっとそのわずか先に光明が見える,そういう努力の中からしか生まれてこない,という意味なのだろう。それは,永遠に見つからないということも含めている。
しかし,
窮すれば即ち変じ,変ずれば即ち通ず,
という易経にある言葉もある。窮しているということは,ひとつの壁だ。壁があるということは,多くの人がそこで投げ出す一つにハードルだと思えればいい。そうすると,選択肢が見える。引き下がるのも,そうだが,横へずれてもいい。ここで,しばらく立ち止まってもいい。岡潔さんは,
タテヨコナナメ十文字考えぬいて,それでもだめなら寝てしまえ,
といった趣旨のことを言っていた記憶がある。それもその一つだ。ひらめく一瞬は,0.1秒脳の広範囲が活性化する。いつもと同じ筋道で見ている限り,いつもの答えしか出ない。脳の,いつもと違うリソースとリンクさせなくては,あるいはリンクするまでのタイムラグが,いわゆる孵化の時間ということになる。脳は,問題意識を掲げると,勝手に考えていく。答えは,脳から出てくる。
「アイデアいっぱいの人は決して深刻にならない」というのは,フランスの詩人ポール・ヴァレリーが言った,僕が大好きな言葉だが,広角な視界は,いつもたくさんの選択肢が出せるとところからくる。そういうゆとり,自分への間合いが必要な気がする。
キルケゴールはいう。人間は精神である。しかし,精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とはひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいはその関係において,その関係がそれ自身に関係するということ,のことである。
結局人は,自分と会話している。あるいは,自分と,自分A,自分B,自分C,自分D…自分nと対話している。田中ひな子さんは,カウンセラーは,
その人自身が自分としている会話(「自分を巡る自分との対話)であり,セラピストは,クライアントのしている「自分との会話」に入っていく。
といった(http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11065948.html)。その自分との対話の間合いを自分で測る,それが選択肢を出すカギだと思う。心の余裕が必要な所以なのだ。
サルトルは,こんな言い方をしていた。
自己とは,それ自身との一致であらぬ一つのありかたであり,「同」を「一」として立てることによって「同」から脱れ出る一つのありかたであり,要するに,いささかの差別もない絶対的凝集としての「同」と,多様の綜合としての「一」とのあいだの,つねに安定することのない平衡状態にあるひとつのありかたである。
こんな不安定の中での自分との間合いが,ゆとりなくしては生まれないというのも,ちょっと常識的で嫌だが。
ところで,ハイデガーは,人は死ぬまで可能性の中にある,と言ったが,サルトルは,私は,まさに私の行為が可能でしかないがゆえに,不安なのである,と言っていた。
「可能性」とは,「その約束の場所で私自身に会えないかもしれない」という恐れであり,「もうそこへ行こうとしないかもしれないおそれ」である,とも。記憶違いかもしれないが,「握った手は握ることができない」といったのもサルトルだったように思う。学生の時の授業で聞いたそのことはだけが妙に印象に残っている。そうだよな,握った手は握った手だ,と。
神田橋條治は,いう。ボクは精神療法の目標は自己実現であり自己実現とは遺伝子の開花である,と考えています。「鵜は鵜のように,烏は烏のように」がボクの治療方針のセントラル・ドグマです。
鵜は鷹にはならず,鷹は家鴨にはなれない。おのれ自身の可能性とは,そういうことだ。後は,そのための努力だ。確か,論語にあった。一人に備わらんことを求るなかれ,と。一人の完全性には限度がある。
そういえば,論語曰く,
己れを知ること莫きを患えず,知らるべきを為さんことを求む。
かつては,自惚れが強かったので,この意識が強かった。しかしいまは,
人のおのれを知ること莫きを患えず,人を知らざるを患えよ
が,強く響く。たぶん,「人を知る」ということの重要さを,ようやくこの歳で知った。すべておのれ一個の力でできると,過信していた。しかしそういう過信が,人の後を金魚のうんこのようについて歩くのを,よしとはしなかった。そういう若気の至りがあってもいい,と今はおのれを許す。
カーネギーはいう。議論に負けてもその人の意見は変わらない。よく落ち込んだものだが,議論ではなく,対話だと考えると,正しいか間違っているかではない。対話については,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11072771.html
で触れた。ガチの対立になるのは,N・R・ハンソンの言う,人が,それぞれ知識でものを見ていることを失念しているからだ。
N・R・ハンソンは,こう書く。20世紀の天文学者が,宇宙空間の適当な位置から眺めれば,地球が太陽のまわりに軌道を描くように見え,その逆ではないことを見るように,13世紀の天文学者は,宇宙空間の適当な位置から眺めれば,太陽が地球の周りに軌道を描くように見え,その逆ではないことを見たのである。ゲーテがわれわれは知っていることだけを見る,といった。ウィトゲンシュタインが「~として見る」といったことを,そうハンソンはたとえた。
おのれを知るとは,おのれの限界を知る,ということでもある。しかしそれは,謙虚さからしか生まれない。つくづくそう思う。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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