2013年02月14日
かりもの
最近,「かりもの」ということが気になる。自分が,ということもあるが,人を見ていて,そう思うこともある。口幅ったいし,まあそんな偉そうな口をきける立場でもないが(だからこそ言い得るということもある),上は,外国人(特に欧米)の著者や考え方のお先棒担ぎから,下は,ひと様の考えの真似まで,自覚なく自分のもののごとくしゃべっていると,キリではあっても,キリにはキリの虚仮の一念というのがあっていい,そんなことを考えてしまう。福沢諭吉以来,そういうのが当たり前になっている。しかしいずれは,化けの皮ははがれる,と信じている。これも所詮は虚仮の一念かもしれない。閑話休題。
ところで,「かりもの」というのを,辞書的に言うと,
亜流の ・ 形式だけ(似ている) ・ (外形を)なぞっただけの ・ (~の)コピー ・ (単なる)引き写し ・ (真に)身についたものでない ・ 便宜的な(振る舞い) ・ (~を)真似る ・ 本物でない~ ・ 咀嚼されていない~ ・ しっくりしない
等々となる。では,そのうちの「亜流」を辞書的には,
二流 ・ 借り物 ・ 薄っぺら ・ なぞる ・ 次 ・ 型通り ・ 陳腐 ・ えせ ・ 真似る ・ 副
となる。その流れで,言うと,自分のものでもないのに,自分のもののごとく語る,ということか。
では,プロとアマの違いは何か。これは,別のところで書いた気がするが,
プロであるとは,その能力と成果物で“金”が取れることには違いがないが,最大の特色は,自分独自の(オリジナルな)“方法論”をもっていることだ。どんなに経験したことのない,未知の(領域の)問題にぶつかっても,瞬時に(といかないこともあるが),自分なりにどうすればいいか,どういうやり方をすればいいかの判断と決断ができることだ。それは,また,自分のやり方に対する批評力があることをも意味する。つまり,自分の方法の方法をもっていることであり,自分のコトバで自分のやり方(の新しさ,独特さ)と内容(の独自性と共通性)を語れる(コトバをもっている)ということである。
こう考えている。でも,「かりもの」であっても,プロとして存在しうる。別の概念かもしれないが,お金はとれても,結局人の褌で相撲を取っているような,居心地の悪さを感じる。それは僕だけの倫理なのかもしれない。はじめ「かりもの」であっても,それを自分の言葉で語っていくうちに,自分のオリジナルな世界へと突き抜けていくということはある。しかし,その場合,おのずと,とは思えない。意識的に,守破離ではないが,それを自分の衣とし,次には,それを脱ぎ捨てて脱皮していく,ということはあるだろう。その場合は,「かりもの」を意識していなくてはならない。
人の能力を,僕は,
能力=知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)
と分解している。「知っていて」「できる」ことだけを,「その気になって」取り組んでも,いままでやったことをなぞるだけのことだ。いままでやったことがない,いまのスキルではちょっと荷が重い,といったことに取り組んで,「何とかする」経験をどれだけ積んだか,でその人の能力のキャパシティは決まる,と言っても過言ではない。
そうして積み上げた知識と経験を,ただそのまま体験として蓄積するだけでは,プロにはなれない。それを,批評するパースペクティブを持っていること,つまり,自分の方法の方法,プロフェッショナルのプロフェッショナル,つまりプロフェッショナルであるとは,メタプロフェッショナルであることなのである。それは,自分が何の,どんなプロフェッショナルであるかを,コトバにできることでもある。人に伝えられるコトバをもっているかどうか,がプロとアマの本質的な差のように思う。
言ってみれば,人は生きてきた分だけ,量や質はともかく,知識と経験は蓄積される。人の能力はそこにしかない。それをどう生かすかにしか,自分を生かす途はないのである。それをどうコトバにするか,そこに自分の“方法論”を明確化する筋がある。
ほかのところでも書いたが,元来,僕は,
世の中には,一流と二流がある。しかし,二流があれば,三流もある。三流があれば四流がある。しかし,それ以下はない,
と思っている。
「一流の人」とは,常に時代や社会の常識(当たり前とされていること)とは異なる発想で,先陣を切って新たな地平に飛び出し,自分なりの思い(問題意識)をテーマに徹底した追求をし,新しい分野やものを切り開き,カタチにしていく力のある人。しかも,自分のしているテーマ,仕事の(世の中的な)レベルと意味の重要性がわかっている。
「二流の人」とは,自らは新しいものを切り開く創造的力はないが,「新しいもの」を発見し,その新しさの意義を認める力は備えており,その新しさを現実化,具体化していくためのスキルには優れたものがある。したがって,二番手ながら,現実化のプロセスでは,一番手の問題点を改善していく創意工夫をもち,ある面では,創案者よりも現実化の難しさをよくわきまえている。だから,「二流の人」は,自分が二流であることを十分自覚した,謙虚さが,強みである。謙虚さがなかったら,四流になる。
「三流の人」とは,それがもっている新しさを,「二流の人」の現実化の努力の後を知り,それをまねて,使いこなしていく人である。「使いこなし」は,一種の習熟であるが,そのことを,単に「まね」(したこと)の自己化(換骨奪胎)にすぎないことを十分自覚できている人が「三流の人」である。その限りでは,自分の力量と才能のレベルを承知している人である。
自分の仕事や成果がまねでしかないこと,しかもそれは既に誰かがどこかで試みた二番煎じ,三番煎じでしかないこと,しかもそのレベルは世の中的にはさほどのものではないことについての自覚がなく,あたかも,自分オリジナルであるかのごとく思い上がり,自惚れる人は,「四流以下の人」であり,世の中的には“夜郎自大”(自分の力量を知らず仲間内や小さな世界で大きな顔をしている)と呼ぶ。
僕はせめて,四流ではありたい,おのれを知っている謙虚な人間でありたい,と思っている。つい思い上がって,うぬぼれがちなだけに,おのれを戒めておきたい。
どんな仕事も,先人の肩の上に載っている,といったのは,確かフロイトだったような記憶があるが,そういう謙虚さはいつもいる。iPS細胞の山中先生が,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11002413.html
でも書いたように,「私の受賞は便乗受賞で,50年前の,ジョン・ガードン先生が,カエルの腸細胞の核を別のカエルの卵子の核と入れ替えただけで,受精せずにオタマジャクシが生まれることを実証されることで,受精卵と生殖細胞だけが,完全な遺伝子の設計図を持つという,100年前以来の常識を覆したことが,私のiPS細胞につながった」と言っておられるのが,心に響くのはそのせいだ。
少なくとも,自分自身と自分の仕事と成果に誇りをもっていること,あるいは誇りをもてるようにするにはどうすればいいかをたえず考えていることが,四流かそうでないかの分かれ道であるように思う。
そのために,こんな問いを切りぬいたことがあった(今も手帳に貼ってある,自戒でもある)。
そもそも自分の職業は何か?
これまで実際にやりとげたことは何か?
顧客の中で誰かそのことを証明してくれるか?
自分の技能(スキル)が最高水準にあることを示すどんな証拠があるか?
競争社会を乗り切っていくのを助けてくれるような新しい知人を,会社をこえて何人得たか?
今年度末の(職務)履歴には昨年と違った内容のものになるか?
自分一人である程度の領域がカバーできる力があればあるほど,期待する水準が高いので,自分一人で何でもできるなどと思い上がらず,(いまは組織にはいないので)チームや仲間で推進していく(達成度を高める)にはどうしたらいいかを考えている。一人で得られる(世の中の水準から見た)成果や情報力は,チームや仲間で得られるものに比べれば格段の時間とコストがかかるのだから。それに,もう自分を過信できるほど若くはない。過信は40代で卒業できなければ,ただの能天気!
参考文献;
ピーター・センゲ他『学習する組織「5つの能力」』(日本経済新聞社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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