「趣味は何ですか?」と聞かれて…


あるところで,久しぶりに,

「趣味は何ですか?」

と聞かれた。で,一瞬のうちに,何もないということに気づいた。

というより,いつも一見趣味に見えることが,自分にとって達成すべきタスクになっていて,建替えた庭が砂埃を立てているのを見かねて,大量にネットで姫高麗芝を買い付け,一日かけて植えまくり,ついでに残っていた石を並べたり,足りないものをレンガを購入して並べたりと,一気に花壇と芝庭を造り上げてしまった。一見,そのプロセスは,ガーデニングが趣味のように見える。

事実低灌木の庭木を何本も,ネットで注文して,植えまくり,庭らしくなるのに3年くらいかかったが,それで一気に熱が冷める。自分のなすべき仕事としてやっていただけなのだ。

一事が万事,すべてこの調子なので,趣味という類の,心を寛がせて,のんびりやる,ということが全くない。

ずいぶん昔,若いころは,「趣味は何ですか?」と聞かれると,趣味はない。と言っていた。事実やはり,なかった。学生時代,クラブで人形劇の脚本を書いたり,人形を造形したりすることは,趣味ではなかった。一種の仕事であった。この体験については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11056480.html

に書いた。

「趣味」に関する質問は,その頃たびたび受けたが,「ない」と本気で思っていたし,逆に,そういう極楽なことは持っていない,と言うことで,胸に秘めた夢を温めていた感じがなくもない。しかし,いまはそれを口にして,あるいは人から言われて,「いやあ,趣味ですよ!」などと言っている。

しかし,「いやあ,趣味ですよ!」などと言って,心ではそうでもないつもりなのだが,そう言っているうちは,たぶんダメなのだろう。結局本気度が試されている。本気でそれをやっているなら,たとえものにならなくても,何年低迷が続こうとも,「まだまだ,諦めてませんから!」と言えなくてはならない。夢は趣味ではないのだから。

昔,「君の夢は?」と聞かれて,「夢は語るものではなく,実現すべきものだ」などと頑なに,語ることを拒んでいた。語ると,それが安っぽくなる気がしたのももちろんあるが,それを語ることが衒いに思えた。静かに心に温め,ひそかに努力し続けるものだと思っていた。

人に語ろうと,語るまいと,実現できる夢はさっさと達成され,実現されぬ夢は,はるかな遠い頂に見える。中島みゆきの「ヘッドライト・テールライト」にある。

行先を照らすのは
まだ咲かぬ
見果てぬ夢
はるかうしろを
照らすのは
あどけない夢

これだけの年月を経ると,かつて熱く語った友の行方は知れず,市井の中で老後を静かに送っているか,野辺で野垂れ死にしているか,あるいは栄光の賞賛にもまれているか,それはわからない。事実,夜逃げしたという噂の友もいる,生死も分からぬ音信の絶えた友もいる。

しかしいまの方が,自分についても,人についても,よく見えている気がする。自分の夢や思いのフィルターで見ると,無意識に,意識的に選別していた気がする。いまは,ただ相手自身を見る。

相手を夢の多寡でも見ない。
相手をキャリアでも見ない。
相手を風采でも見ない。
相手を身なりでも見ない。
相手を実績でも見ない。
相手を有名無名でも見ない。
相手を功名でも見ない。
相手を言動でも見ない。
相手を知識の多寡でも見ない。
相手を地位でも見ない。
相手を高名でも見ない。
相手を好悪でも見ない。
相手を善悪でも見ない。
相手をエネルギーの多寡でも見ない。
相手を情動の多寡でも見ない。
相手をイデオロギーでも見ない。
相手を思想でも見ない。

ただ相手へ感じた好意のみを信ずる。広津和郎が,松川事件の被告たちを,ただ直感だけで,無実と信じたように,おのれの,その直感を信ずる。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




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