2013年02月23日
その一瞬を創る
先日も,コーチングフェローズ(http://www.coachingfellows.jp/index.html)という,コーチングの体験会に出させていただいた。そのほかにも,神奈川チャプターなどでの「コーチングジム」のような場があると,出来るだけでかけるようにしている。それについては,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11080634.html
でも触れたが,この何回かで,自分の中で気づいたことがある。
僕は,一瞬で,二人の関係ができるかできないかが,勝負(という言い方は変だが,両者の出会いの成否という意味)の分かれ道なのではないか,という気がしている。そこで,安っぽい言い方になるが,信頼関係ができるかどうか。もっと踏み込めば,両者が好感をもって相手を受け入れられるかどうか。そのためには,コーチが相手を,どんな場合も120%受け入れている,ということが,オーバーな言い方だが,瞬間に,相手に伝わること,伝わる態度,振る舞い,姿勢を前面に開示できること,だと思う。
コーアクティブ・コーチングでは,Dance in this moment,今この瞬間から創り出す,ということをいう。僕は,確か,以前は,thisではなくtheであったと覚えている。特別な一瞬という意味では,「the」の方がいい。その時,その場で,「いま」「ここ」に「私」と「あなた」との間で,協働関係の場を創る。そこにいる僕と誰それとの間だけで,そのとき場になるというのは,特別な瞬間なのではないか,という気がしている。
だから,理想を言えば,相性などというのは,コーチが言うべきことではない,と思い始めている。それは,クライアントは完全な存在であり,みずから答えを見つける力をもっていると言いながら,それを手伝えない人がいるというのは,表裏で齟齬がある,まあ羊頭を懸けて狗肉を売るということになるのではないか,とも思っている。もう一つ,誤解を恐れず言うと,ファウンデーションという言葉もあまり気に入っていない。弘法筆を選ばず。自分のシチュエーションがどうなっているかは,クライアントには何の関係もない。いま死にかかっていても,コーチングを求められたら,一瞬,相手も自分も一つの場を創れて,耳を開く,心を開けること。それをプロフェッショナルというのではないか。
前にも触れたが,
フロイトが口蓋の癌に侵されたとき,フロイトのもとへやってきて,心理学におけるある点について話したがった人がいた。そのひとはこう言った。「たぶん,話などしないほうがいいのでしょうね。あなたはこれほど深刻な癌に侵されているのですから。こんなことについてはお話したくないかもしれませんね」。フロイトは答えた。「この癌は命にかかわるかもしれないが,深刻ではないよ」。
これをプロというのではないか。解釈は違うかもしれないが,クライアントには,こちらの状況は関係ない。それを言うのは,いいわけに過ぎない。福島正伸さんは,「私はいつも絶好調。私の体調はお客様には関係ない」といったのはその意味だろう。
ところで,コーチとクライアント両者の,協働関係というか,僕は,それを土俵という言い方をするが,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod064301.htm
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06432.htm
コーチ側が,だけではなく,クライアント側も,一緒の場にいる,と思えている,ということだ。そこからしか,コーチングは成り立たない。コーチの質問で相手が気づくとか,相手が変化するとか,そういう現象が問題なのではない。大事なのは,その一瞬の,いま,ここに,両者が一緒にいるかどうかだ。その時,クライアントの見ているものを見るとか,両者で一緒のキャンバスを見るなどということは,結果としてそうなるのであって,そういうことを目指すのではない。戦略とか,ということも,コーチの勝手な思い込みに過ぎない。そういうことを言っている間は,実は,クライアントを信じていない自分に気づくべきだ。コーチは,本当に,クライアントと共にいるのか,クライアントの最大の味方として,ただそれだけが問題だ。
その場が出来ないのであれば,たぶん,コーチなんぞいなくても,クライアントは一人で気づくし,一人で成長していく。質問で気づく,提案でハッとする,リクエストで視点が変わる,などということは,単独ではありえない。その前に,両者の間で,一緒のとき,一緒の場にいる感覚が出来なければ,質問は,言葉だけが入ってくる。僕というコーチの言葉でなく,言葉としての問いだけが単独で入ってくる。そういうのをコーチングとはいうべきではない,と僕は思っている。
コーチという僕という存在抜きに,その場はできない。コーチという僕という存在と,クライアントの何某というその人の存在抜きにその場はない。そのとき,その言葉は,言葉が中空で交わされているのではない。その時言葉には,大袈裟にいうと,僕という人間の存在そのものでなければ出せない言葉でなくてはならない。コーチである前に,僕という人間の重みのついた言葉でなくてはならない。
ということは,理想を言っているだけだから,僕のことは棚に上げて言うが,僕という人間がコーチでなければできないコーチングでなくてはならない。それはスキルでも,振る舞いでもない。その時そこに,自分が自分として,全面開示し(「全開き」といった人がいるが),相手と向き合うかどうかだ。
外見は,貧乏たれで,日頃は,さえないくそ爺でもいい。しかし,必要とされるクライアントと向き合った瞬間,その人との間で,瞬時に場を創り,相手とともに,Dance in “the”momentを創り出していける,そういうコーチでなくてはならない。もちろん,人間性も,知性と教養も必要かもしれない。しかし,それを必要とするのは相手であって,コーチがその人の人生を代わるのではない。その人が自分の人生を自分が主役になって生きていくために,コーチは,その人が自問し立ち止まる,止まり木になっている。そこで,またクライアントが自分を奮い立たせられればいい。
コーチは主役ではない。コーチは無名でなくてはならない。コーチはあくまで影でなくてはならない。
コーチが目立つということは,すでにコーチとして失格である。目立つのはクライアントであり,それもクライアント自身の手柄として何かを達成したのだ。そのとき,クライアントから,~コーチという名が出た瞬間,コーチングは失敗したのだ。コーチは,そういう役割に徹する覚悟をした者だけが,なるべきだ。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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