気力について


遠くから名前を呼ばれている気がして,ふっと目覚めた。その直前夢を見ていた気がするが,はっきりしない。目の前で,執刀の女医さんが,終わりましたよ,と声をかけてくれた。

ありがとうという意志表示で出たのか,
単に(ちょっとかっこいい)女医さんの手を握りたかったのか,
なんとなくうつつの何かに触れたかったのか,

どういうわけだか,思わず手を出したら,握手を返してくれた。間合いというのはこういうことなのだろう。

痛みはひどかったけれども,まあ何とか食事はとれたが,翌日位から身体が弱り,気力が萎えていった。無自覚に萎えていく,無意識ではない,萎えていくことを意識しているのに,それを自覚していない。そのまま無気力になっていく。まあ,こんな程度いいのではないか,そう諦めかけた時に,自分は,まだまだ終わっていない,ということを感じた。

思い出したのは,フランクルの問いだ。人は人生に何かを求めるのではなく,自分の人生が自分に求めているものにどう応えるか,それを天命と呼ぶんだと,僕は思った。

天命という言葉は,別に使命とか役割とかとは関係ないと思っている。そういう意味に使っている人は,思い上がっているか,うぬぼれているか,無自覚に自己欺瞞に陥っている。人には,天寿を全うすべき天から定められた寿命がある。だから,途中でそれを全うできなかったことを,非命という。すべての人に天命がある。生きることそれ自体が,天命であって,何か目的があるなどと思い上がってはいけない。

人生には目的などない。自分が目的を定めるだけのことだ。それを神から託されたと思い上がるのも自由,誰かのために尽くそうとするのも自由。ただおのれの欲のためにだけ生き切るのも自由。死ねば死に切りと思うのも自由。だから人間だけが,自らの生を絶つ自由がある。

しかし僕は,まだ生かされているなら,生かされているうちに自分にできることをしたいと思う。そこで人生を諦めるのも,そこで人生を投げ出すのも,別におのれの人生だから,ひと様にとやかく言われる筋合いはない。しかし,自分がそれでは納得できない,と感じている。

天命を信じて人事を尽くす,とはそんな時に自分に問いを出す。

おのれの存在を賭してでもすべきことがあるのか,という問いが,現実味を帯びる。その問いを絵空事にしない。

王陽明は,『伝習禄』で,聖人の「生知安行」,賢人の「学知利行」に対して,普通に学ぶものを,「困知勉行」とし,天命と一体の聖人,天に事える賢人に対して,天命が何たるかを知らないから,「天命を俟つ」(人事を尽くして天命を俟つ)以外ないのだと言った。だから,「殀(わかじに)か寿(ながいき)を全うするかによってその心を弐(たが)えず,身を修めて天命を俟つ」といった。その伝で言えば,与えられた寿命を生き切るほかはない。後は,天命を俟つのみ。

だから,余生というのはない。余りの人生なんぞあるはずはない。ふと,もうのんびりしてもいいのではないか,ゆったり過ごすか,等々と思ったりする。しかしそれは与えられた限りある人生の無駄遣いだ。

確か秋元康が,人生は電話口にテレホンカードを差し込んだ状態に譬えた。しゃべってもしゃべらなくても,度数は減っていく,と。

生きている限り,のんびりするのは,僕には人生の放棄に見える。

生きている限り,というか生かされている限り,しなくてはいけない何かが見える。人のためであれ,自分のためであれ,それが自分のすべきことというのが見える。

よく,すべきことではなく,したいことを言え,という言い方をする。僕はナンセンスだと思っている。したいことは,所詮したいこと。優先順位は低い。好きなことをしているイチローが,ちっとも楽しくなんかないです,と言っていたのが印象的だ。したいことよりも,自分でなくてはできないこと,自分こそがやるべきだと信じたことをやる,それを大事にしたい。それが福嶋さんの言う,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11097313.html

「出番」とはそういうものだろう。

それが天命からか,役割からか,義務からかはどうでもいいのではないか。いま「自分が」やらなくてはならないと感じたことをやるべきだ。それが僕は人生への問いに答えることだと信ずる。所詮したいということも,すべきということも,自分の思い込みや思い違いにすぎないのかも知れないのだ。

だとしても,いま「自分が」やらなくてはならないと感じ,やらないですませば,きっと後から後悔するに違いないと感じるのなら,いますべきなのだ。楽しくないとか,したくない,したいことではない等々いうことは,所詮やるべきことをしない逃げに過ぎない。

楽しいか,やりたいかの選択肢は,本当はどうでもいいあいまいなものに過ぎない。楽しくしたいことだけをしている人生など,所詮楽しさしかないだけのつまらぬ人生だ。

いま,ほかならぬ,自分がしなくてはならないと感じることこそから,逃げず,やらなくてはならない。それをしなくては,きっと後悔するに違いないと思ったら,なおしなくてはならない。それが天命というもののように思える。

たとえ,心情告白でも,独立宣言でも,終活開始でも,戦闘開始でも,闘争宣言でも,限界突破でも,何であれ,それがし残したことなら,それが天命だ。天命に軽重も是非もありはしない。その人の一生分の価値だけがある。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



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