2013年03月20日

夢について


夢についてあまりに楽天的に語る人にも,思考は現実化すると,手放しで喜ぶ人にも,僕はちょっとだけ身を引く。夢をかなえた人は何人いるのか,努力の問題ではない。人一倍努力しょうと届かぬ夢はある。でなければ夢ではない。

ある映画で,タイトルは忘れたが,35歳で,入団テストにチャレンジし,150キロ超えのスピードを出して,メジャー再デビューした男の物語だった。その男が,ある人に是非を尋ねに行く。その人曰く。

自分の夢を持つのはいいが,
それは,
自分がやるべきことを見つけるまでだ。

やるべきことを,目の前のタスクや課題や生活のための問題処理ととらえるか,天命ととらえるかで意味が変わる。映画の男は,「それを俺に聞くのか?」と反問しつつ,そう言ったのだ。その意味は,その夢は,やるべきことを放り出すに値するのか?と問いかけている。

夢は,実はいまの現状とかけ離れているものとは限らない。いま実現していることで,近似に達成できていることがある。それに自分で気づいていない。

もともと夢は,金剛般若経に,一切の有為法は,夢・幻・泡・影の如く,露の如く,また,電の如し,というように泡や露と対比される,はかないものだ。

秀吉の有名な辞世,「露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速のことも夢のまた夢」でいう夢も,一瞬間の幻の意味だ。よく夢幻という意味で使う。夢の持っている,はかなさ,幻さのニュアンスが昨今ひどく弱くなり,実現させたい願いのほうシフトしている。それだけ,為せば為せる環境が整っているということもあるが,夢が過大評価されすぎているせいかもしれない。

夢を実現できるかどうかは,それを目標化することだという御説がある。それは間違いだ,所詮目標化できるような夢なら,ただ行動目標を立てるだけで実現できる。大金持ちになりたい→10億円→…これは,可否かどうかは別に実現できる。これは夢ではないからだ。

そんな程度のしょぼいものを夢と言われては困る。コーチになりたい,カウンセラーになりたい等々も同様だ。誰でも資格を取れば,まあなれる。夢はその先にある。何をしようとしているのか,ほかならぬ,自分がそれになることの意味と価値は何か。

たぶんそう簡単ではない。成りたいものになる。それは簡単だ。総理大臣だって,今どきの値打ちの下がった総理大臣なら,大概そのための筋道は見える。

こういうのは夢とは言わない。少なくとも,僕の中では,夢ではない。問題は,なった後なのだ。その先に何もないなら,それは単なる野心や野望の近似値に過ぎない。

夢とは,今までないものだ。自分の出番ではじめて世の中に存在する類のものだ。私というコーチという存在ではない。私というコーチが何を実現するのか,でもない。人の夢をサポートするなどというのは,夢ではない。単なる実現可能な役割,というよりコーチ一般の役割そのものではないか。そんなものを夢とは呼ばない。

人の後追いではない,二番煎じでもない,この世にまだないものだ。それは自分の思いを言語化してみることでしか見えてこない。言葉にした時,自分を,自分の思いをメタ化する。その言葉が,自分の思いとの微妙な差に気づき,より近いものへと導いてくれる。

実現できる夢もどきはさっさと達成され,実現されぬ真正の夢は,はるかな遠い頂に見える。以前にも引用したが,中島みゆきの「ヘッドライト・テールライト」にある。

行先を照らすのは
まだ咲かぬ
見果てぬ夢
はるかうしろを
照らすのは
あどけない夢

照らし出されている先には,まだカタチはない。なぜなら誰も実現していないのだから,後方にある夢も,まだカタチはない,まだ淡い思いだけだから。

今日のアイデア;
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