自分を表現する
自分を表現するということは,自分の中にあるものを表出するという個人に自己完結したものもあるが,そうではないものもある気がしてならない。
元来,文学青年であった自分にとっては,自分の内面の外在化という,個人としての自己表現こそがすべてであった。そのために,どう言語化するか,については悪戦苦闘もしたし,好きな古井由吉の『杳子』等々をほぼ全文を書き写して,その文章のリズムと生理を体得しようとしたこともあった。「風はとつぜん生理のようにおちていった」という「固有時との対話」の一節が,いつも頭をよぎっていたものだ。あるいは,Ô saisons ô châteaux,おお、季節よ、城よ,も頭をよぎる,そうしてフレーズが蓄積していく。
結局,いつの間にか,自分の文章のリズムはできた,というかどう工夫してもその先行かない,自分の書き方が固まってしまった。ま,日常的に文章にするのを業にしてしまったせいで,書き上げなくてはならないから,とにかくまとめきってしまおうとする。そうすると,表現の工夫は遠のいた。
流儀は,ロジカルではなく,噴出するように描き切ってしまう。書き方も,アバウトな全体が見えると,部分を書き連ね,最後に一気に流れに変える。しかし,ついに生理としての文体は自分のものになっていない。
それは,何と言おう,自分のありようと一体化した文章,呼吸するように,息遣いがそのまま文章になって起伏していく文章がそうなのだろうとは,あては衝く。しかしそれを自分のものにするのとはちょっと違う。
しかしここで言いたいのは,文章論ではない。それだけが自己表現ではない。そんな当たり前のことに,最近気づいた。いまある方と,セミナーになるか,ワークショップになるかわからないが,一緒に何かをやろうということで,いろんな話をする機会がある。それは生き方の話であったり,コーチングの話であったり,夢であったり,コーチのあり方についてであったりする。
そんな中で,ふと気づいたのだが,僕はセミナー講師をしたり,研修講師をしたりするが,自分でそれを企画して売り込んだことが一度もない。元来が怠け者で無精だから,せいぜいホームページを98購入と同時にでっち上げたくらいだ。
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/
初めに,プログラム集のような冊子に企画をでっち上げたということを,前々回に書いたが,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11122506.html
その時も,特に売り込む意識があったわけではない。だから,人をどう集めるとか,どうやったら人の関心を呼ぶのかとかに,強い意識がなく,自分の言いたいこと,手渡したいスキルは何か,そういう自分のコンテンツの表現に意識向きがち。だから,テキストは,膨大に厚い。基本的にプロジェクターを使わず,パワポも使わない。
つまり自己完結した自己表現の延長線上にずっといる,ということなのだ。
しかし,別の自己表現がある,という当たり前のことに気づいた。つまり,自分を素材にする,ということだ。自分は,自分の表現ではなく,人の表現の素材になる,という自己表現の仕方である。
自分のコンテンツを表現するのではなく,そこにいる相手とともに表現する。例えば,
相手を語ることで自分を表現する
相手に語られることで自分を表現する
相手と語り合うことで自分を表現する
相手と共にいることで自分を表現する
相手と共に何かをすることで自分を表現する
相手と共にいるだけで自分を表現する
相手との関係性そのもので自分を表現する
そのとき,表現は自己完結していない。その時,表現は,
その場そのもの
その雰囲気そのもの
その空気そのもの
その空間そのもの
その関係性そのもの
そのフィールドそのもの
その磁場そのもの
が自分を表現している。その時,自己は,そこで表現しようとするものの要因というか要素というものになっている。表現の自己完結性が崩れている。ここらに,いま表現としての新しい意味を自分として発掘,発見,創造しようとしている気になっている。そこでは,
自分の個を生かす場である,
と同時に,
自分の個が,そこに融解していく場である,
と同時に,
別の個が,そこで現実化する場でもある。
あるいは,その場そのものの中で化学変化を起こしていく。そのプロセスそのものが自己表現と置き換えてもいい。
そういう止揚の場,そういう変質の場,そういう昇華の場でありたいと思っている。いままでのコンテンツは,そこで脱皮するに違いない。その脱皮自体もまた新たな自己表現になる。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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