2013年03月27日

自分でいる


日曜日に基本のきに参加した。そこで得たものについては,先日書いたが,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2013-0218.html

再度参加した。そこで学んだことは繰り返さないが,実は今回発見したことがある。

ひとつは,わずか10分くらいの間に,その場にいた人に印象をカードで手渡すというワークがあった。そこで僕がもらったのは,

自信がある
情熱的
影響力

であった。それを使って,自己紹介するというプレゼンの練習課題が与えられた。たとえば,

「僕の特徴は,自信がある,情熱的,影響力です」

といい,その中の一つを選んで,エピソードを伝えて,自分の特徴は,と繰り返すというパターンなのだが,僕は瞬間,自信を選んだが,頭で描いたのは,「過信」になりがちな自分を語るということであった。

しかし,人のプレゼンを聞いているうちに,それを選んでくれた人に,それは間違いですと伝えるようなものだと感じたことが一つ。

いま一つは,それはプレゼントして,相手に何を伝えたことになるのか,と考えると,そのままストレートに自信がある,という自分の経験を伝えたほうがいいと考え直して,「どんなオファーにも対応してプログラムをでっち上げる」という,いつかここで書いたこと,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11122506.html

を話した。

癖のように,まず謙虚さから行く傾向があるが,それはある意味卑屈な自分を気づかず披露しているところはないのか,と気づいたのだ。そのままの自分ということは,防衛的に鎧(謙虚さや謙譲はある意味,防御をとっている)を捨てて,どう見られても,こういう自分ですとさらけ出せることだ。その方がはるかに意思と覚悟がいる。

プレゼンの方法として,PREP法というのを学び,それを何回か,テーマを変えて繰り返した。

たとえば,好きな場所,ということで,

①Point 僕の好きな場所は飛騨高山です。
②Reason なぜならば,僕はあそこで,小3から小6の二学期まで過ごしたのですが,一番遊びまくった,思い出深い場所だからです。
③Example たとえば,本町通りの裏道で,近所の子供たちが,夜遅くまで缶けりしたり,走り回っていて,西小学校の朝礼で,「本町の子供たちは夜遅くまで遊びすぎ」と注意された位なのです。
④Point だから私の好きな場所は,飛騨高山です。

とやったとする。しかし,それはただ自分の子供時代の思い出を語っただけだ。それを,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10973893.html

で書いたように,自分の好きな場所として語るのか,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11049581.html

で書いたように,自分の故郷として語るのかで,伝えるメッセージが変わる。

前者で言えば,自分が珍しくとけこめた場,ということで,自分が自分でいられた場所,自分の解き放たれる場,といったような場の持つ効果としてメッセージを伝えることになる。しかし,後者だと,僕には故郷と呼べるものがないが,みんなが持っている故郷をイメージすると,高山が浮かぶ,というように,それぞれの心の故郷に触れるように伝えていくことになる。

例示の流れでは,そこが中途半端で,鈴木安子さんからのフィードバックの,「メッセージ性を考えると」の肝はそこなのだろうと受け止めた。当然,それによって,出す例示のニュアンスが変わり,前者だと,いつも自分が夢に見る話しを出すだろうし,後者だと,普通の故郷で体験するような,遊び,祭,相撲,スキーと,体験したすべてを伝えることになるだろう。

自分を伝えようとするときも,照れず,飾らず,ありのまま,たんたんと,というのも悪くないが,開示そのものを掘り下げなければ,「自分でいる」ということは伝わらない,ということではないか。それは,伝えるときの自分への切り込み方なのではないか,と思う。ただ漫然と自分について語るのではなく,自分のどの側面をどう切り込んで,描き出せるか,「飾らない」というのは表面をなぞることではなく,不出来な自分を「こんな不出来具合」と見せるには,「こんな」に工夫がいる。それがメッセージであったり,テーマであったりする。でないと,漫然と語ったにすぎない。それは,ただ見えている部分を見せただけでは,そんなことしなくても,相手には「わかっている」部分に過ぎない。それでは伝えていることにならない。あくまで,自己表現なのだから。

そんなプレゼンを体験しつつ,自分の中で気づいたことがある。

プレゼンテーションでも自己紹介でも,自分について語るにしても,大勢の前で,あがったり,緊張したり,頭が真っ白になったりするのは,準備とか場数ということを別にすると,大勢のことに「見られている」という受け身の状態というか追い詰められた状態でいることが大きい。

で,逆に意識的に,こちらが大勢の側を「見る」「見ようとする」視線を取る。そのことによって,多少の落ち着きというか,マインドの変化が起きる。それは全開確かに確かめたはずなのだが,そのはずなのだが,今回気づいたのは,自分は,見られることには結構平気で,逆に人を見ようとすることの方に照れや羞恥心が起きるらしいということだ。

意識を切り替えて,一人一人に目線を送ると同時に,心の中がざわついて,落ち着かない。目が合った瞬間,もう逃げたくなる。目をそらしたくなる。それなら,誰かを見ているようで,見ていないような,目線をさっと流していた方が気が楽だ。

どうやら,自分は,ひとに見られるときには自分でいられるのに,ひとを見ようとするとき,特に特定の一人一人と目を合わそうとするときに,自分でいられなくなるらしい,ということなのだ。

それは,見られるとき自分を解き放てるのに,見るときは,自分の思いや感情にとらわれやすい,ということらしい。というか,少し思い入れが過ぎる?そこでは自由ではいられないのは確かで,逆に相手の眼に捉えられてしまっている自分がいるようなのだ。いや,ではなく,相手に捉えられていると思い込む自分にとらわれている…。

そして,どうやら,ここに自分のコミュニケーションにおける難所も一緒にある,ということらしい。コミュニケーションにいつも悩むのは,この自分の思い入れ,もっと踏み込むと,自己幻想とのギャップに,独り相撲で,勝手に混乱しているらしいということなのだ。

なぜなら,その人を「見る」というのは,その人と会話を交わすことだ。会話を交わす,というのは,心を交わすことだ。その途端,自分の中に自己幻想というか,自分の声を聴いている,いわば,自分に矢印が向いてしまうらしい。

やばい!

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


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posted by Toshi at 06:10| Comment(1) | 日記 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
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Posted by ray ban sale at 2013年05月18日 12:20
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