茂木健一郎さんは,
表現として高度の洗練と達成を求めるほど,言語圏の奥へと入り込んでいき,他の言語圏の人には不可視な場所に取り込まれていってしまう。そのような言語の仕掛ける罠を思うとき,私は他のどのような事態からも受けないたぐいの打撃を受け,深い絶望を感じる。
では勝ち馬の英語に乗ればいいのか。そうは茂木さんは考えない。
もちろん異なる言語の間には,ある程度の「翻訳」が可能である。日本語圏の住人にとっての志ん生の味わいを,英語圏の言語で表現することが全く不可能であると決めつけられるわけではない。(中略)しかし,複数の言語の壁を超えて普遍性を立てることを志向するとき,そこにはおのずから原理的な困難がある。(中略)厳密にいえば,ある概念の普遍性は,その概念の翻訳可能性と一致するとは限らない。たとえば,世界の中のある言語圏だけが到達し,把握している普遍性が存在することはありうる。
そう述べた上で,村上春樹に言及した。
双方向の行き来が盛んになるにつれて,翻訳可能なものだけが事実上の普遍性を帯びていくということは実際的な意味で不可避のダイナミクスだといってよい。村上春樹の作品が,最初から翻訳可能な文体で書かれていることは,意識されたものであるかどうかは別として高度に戦略的である。
自分が村上春樹を好きになれない理由が分かった気がした。イスラエルへひょこひょこ出かけて何とか賞を受賞する,政治センス(意志的だとしたらなおさら)の能天気さだけではなく,その書く姿勢そのものが相容れない。
同じ翻訳家として,ムジールの翻訳から出発し,ついに日本語の極限にまで到達した古井由吉と,同じく戦後,翻訳文章などと揶揄されながら,日本語の新たな表現を獲得した大江健三郎とは,全く対極にある。親鸞が,折口信夫が,あるいは吉本隆明が,翻訳不能なのは,普遍性がないからではなく,掘り下げた「共同幻想」の根っこが,翻訳不能なのだ。そこにのみ,日本のコアがある。それを「文化的遺伝子」と,茂木さんは言う。
和辻哲郎が,『鎖国』の中で,世界的視圏という言葉を使っていたことを思い出す。世界的視圏を仰望した和辻は,考えれば,楽天的だったということができる。自分を捨て,日本語を捨てても,日本人は残る。その重みを見落とすものに,日本を語る資格はない。
例えば,古井由吉の傑作『眉雨』の一文。
空には雲が垂れて東からさらに押し出し、雨も近い風の中で、人の胸から頭の高さに薄明りが漂っていた。顔ばかりが浮いて、足もとも暗いような。何人かが寄れば顔が一様の白さを付けて、いちいち事ありげな物腰がまつわり、声は抑えぎみに、眉は思わしげに遠くをうかがう、そんな刻限だ。何事もない。ただ、雲が刻々地へ傾きかかり、熱っぽい色が天にふくらんで、頭がかすかに痛む。奥歯が、腹が疼きかける。たがいに、悪い噂を引き寄せあう。毒々しい言葉を尽したあげくに、どの話にも禍々しさが足らず、もどかしい息の下で声も詰まり、何事もないとつぶやいて目は殺気立ち、あらぬ方を睨み据える。結局はだらけた声を掛けあって散り、雨もまもなく軒を叩き、宵の残りを家の者たちと過して、為ることもなくなり寝床に入るわけだが。
夜中に、天井へ目をひらく。雨は止んでいる。とうに止んでいた。風の走る音もない。しかし空気が肌に粘り、奥歯から後頭部のほうへまた、降りだし前の雲の動きを思わせる、疼きがある。わずかに赤味が差す。
これを翻訳したら,たぶん意味は通るかもしれない。しかし文体のコアは消える。文章を伝達の手段と考えるなら,それでもいい。それなら文学は成立しない。小説世界が既にあるものとして,それを前提に書かれる小説はいざ知らず,いまだかってない文学という世界を切り開こうとする作家にとって,文体はその単なる表現手段ではない。そのリズム,その語彙の選択,そのつなぎ,その流れ,句読点の打ち方一つ,その醸し出す雰囲気,そのすべてが文学作品を支える大事な世界の構成要素だ。そもそもそこまでわかって翻訳している人間がどれだけいるのか。
翻訳した時,何かが壊れる。翻訳とは,翻訳者が書き直しているに等しい。その翻訳で,実は原作は解体され,翻訳者の知識と理解度に応じて再構成されている。原作とは似ても似つかぬものになっているのは,詩を読むとはっきりわかる。
たとえば,
巷に雨の降る如く
我が心に雨の降る
これって,ベルレーヌのではなく,堀口大学の情緒だ。
それでもなお翻訳可能性とは何なのか。僕にはわからない。そこまで通訳可能性に楽天的にはなれない。
参考文献;
茂木健一郎『思考の補助線』(ちくま新書)
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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