かつて上司であった編集長は,部下の書く文章について,箇条書きにすることを徹底させた。おかげで,習い性になり,
http://www31.ocn.ne.jp/~netbs/critique102.htm
を書いた時,最終選考で,選者の一人後藤明生氏から,文学的ではないと評されて,落ち込んだことがある。しかし,やはり,箇条書きにすることは,読み手にわかりやすい,とは思う。
たとえば,何々について言えることは,
①
②
③
という具合である。そして,重宝なことに,いくつという枠を決めると,その数だけ,ひねり出してしまうことができる。言うべきことが,見えてくる。
たとえば,文章に欠かせないことは,五つである,と言い切ったとすると,
①一文のセンテンスで,輻輳させず,言いたいことをシンプルに言い切る
②カンマをある程度多めに入れる。
③「です調」か「である調」か「だ調」か,レベルを統一する
④主語を明確にする
⑤過去形か現在形かの区別は意識的にする
等々である。別にここで言い切ったことが正しいかどうかではない。そう言い切ることで,伝えたいことの枠が決まる。人は枠なしで,ぼんやりものを考えない。同様に,読み手に取っても,書き手の枠組み,いわば窓枠がはっきりした方が,そこから見ている視界がはっきりする。
たとえば,大事なことは,三つです。と先に宣言されると,頭に入りやすいという。口頭のメッセージは25%の歩留りと言われる。しかし,こうやって堰を作ってもらうと,シーケンシャルに流れていく話題が,区切れ,分節化することで,記憶にとどめやすくなる。これも箇条書きの一種といっていい。
当然枠を替えれば見える世界が変わる。たとえば,いまの文章に欠かせない五箇条を別の切り口で書けば,
①語り手は誰か
②語られている世界は何処か
③語られているひと(びと)は誰か
④語られている時間はいつか
⑤語り手はどこにいるのか
という風にも書ける。
ただこういうことで得られるわかりやすさは,決めつけと近似で,わかりやすくするために,何かを犠牲にしていることがある。そこを考え始めると,そう簡単に箇条書きが「わかりやすい」とのみは言い切れない。
別の視点で考えると,箇条書きにするということは,ある次元を網羅することになる。それは,次のサイトにあるような,ロジカル・シンキングでいう,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0951.htm
ロジカルツリーには,縦につながる筋を通すことと横のつながりのもれなくすることの二つがあるが,箇条書きで書いているのは,横のつながりだけなので,縦の筋から次元を変えれば,別の箇条書きの項目が生まれてくる。この延長線上に,チェックリストがある,といってもいい。
たとえば,コミュニケーション力を,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06394.htm
と,まとめた場合,
聞く力/伝える力/自己開示力/感情コントロール力/人と関わる力/モニタリング力,
とわけるのが,ロジカルツリーで言う縦の筋の第一段階とすると,この各項目が決まれば,その下へブレークダウンした具体的項目を考えることになる。これが横のつながりになる。
だから,箇条書きで書くということは,次元を設定しさえすれば,それを次元を上へあげていくことも,下へ下げていくことも,次元さえ分かっていれば,レベルを変えて書くことができる,ということになる。もっとも,人の脳は,丸めるのが得意なので,上へ丸めるのに比べると,ブレークダウンはずいぶん不得手ではあるが。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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