2013年05月12日

「したいこと」と「しなくてはならないこと」


昨今どういうわけか,「しなくてはならないこと」を口にすると,「したいこと」を言えと言われることがある。それがよくわからない。バランスの問題ではない。

人には,「やらねばならぬこと」「やりたいこと」「やれること」の三つがある。しかし,やらねばならぬことをしないものに,やりたいことは実現できるかもしれないが,人として,全く信をおかない。そういう人をいっぱい見てきた。

僕は「しなくてはならないこと」が,たとえちっぽけな雑用でも,それをするのが自分の役割だと思ったら全力でやる。そうしない人間を腹の底から軽蔑する。それを僕がしなければ,他の人がしなくてはならない。「しなくてはならないこと」は,誰にとっても「しなくてはならないこと」だからだ。

もう一つ思っているのは,「したいこと」を言う人は,多く修羅場をくぐっていないように見える(失礼!)。自分の伸び白いっぱいにやっても,まだとても届かない中,でも逃げ出さず,やり遂げるという意味だ。それは他人にとっては修羅場ではない。当人にとってのみ,修羅場だ。そんなことで迷っているのか,そんなところで手間取っているのか,そういう目で見る先輩は少なくない。それだけの仕事をこなせる人から見たら,出来の悪い人間のもたつきは,いらだつだろう。ましてチームなら,レベルの落ちているところがチーム全体の足を引っ張っている。

そういう中で,自分が「しなくてはならないこと」を,なんなくこなしていける人間にしていく。「こなしていける」ところが重要で,そこで立ち止まれば,単なるベテランで終わる。そこで自足せず,さらに自分の伸び白を引っ張り,広げていく。それがなければ,こなしに自足したただのベテランだ。

ときに,「したいこと」を言う人が,「しなければならないこと」を逃げている逃げ口上に聞こえることがある。あるいは,「しなければならないこと」を回避するための言い訳にしているように聞こえることがある。僕の僻目かもしれない。しかし,そう聞こえる状況にいて,そう聞き取ったのだということは確かだ。人の忖度など知ったことではない,という言い方もある。しかし,いったん信頼を失ったら,それを取り戻すには数百倍いることを骨身にしみて知っている。

閑話休題。

ところで,人の能力は,知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)の総量だと思っている(これに体力だの感力だのがいるかもしれないが)。ここで発想が重要で,これは未知の,未経験の事態を,文字通り「何とかする」ことによって,自分の伸び白を広げていく。そういう修羅場の経験も必要だという意味で,能力を伸ばすには,きっかけとしては一番重要だと思っている。

もし「したいこと」というなら,「しなければならないこと」を潜り抜けていなければ,単なる願望以上にはそれはならない。それだけの度量と器量と技量と力量は,黙って勉強するだけではつかないからだ。

イチロー語録は,なかなかイチローが端倪すべからざる人物だということを示しているが,たとえば,

小さいことを積み重ねるのが,とんでもないところへ行くただひとつの道だと思っています。

今自分にできること。頑張ればできそうなこと。そういうことを積み重ねていかないと遠くの目標は近づいてこない。

練習で100%自分を作らないと,打席に立つことは出来ません。自分の形を見付けておかないと,どん底まで突き落とされます。

「たのしんでやれ」とよく言われますが,ぼくにはその意味がわかりません。

毎日,力は振り絞っていますよ。余力を残そうとしていたら問題。

どんな難しいプレーも当然にやってのける。これがプロであり,僕はそれに伴う努力を人に見せるつもりはありません。

努力せずに何かできるようになる人のことを天才というのなら,僕はそうじゃない。努力した結果,何かができるようになる人のことを天才というのなら,僕はそうだと思う。努力できるのも才能という。

等々をみると,テレビの番組で,「好きなことをやっているが,ちっとも楽しくない。」というイチローの言葉を思い出す。「したいこと」を忘れてはいけない。しかし,それを実現するためには,そのために日々しなくてはならないことを,歯を食いしばってやらなければ,「小さな積み重ね」ひとつクリアできないだろう。

僕は,古いタイプの人間なので,「やりたいこと」のために,いま目の前で,人として「やらなければならないこと」を見逃したり,その立場でやらねばならぬことを放置したり,否でも応でも「やらなくてはならないこと」を全力でやり遂げようとしない人を信じない。

そして,なお,したいことを選ぶのなら,その自分の「しなくてはならないこと」を放棄してもなお,それは「する」に値するのか,を考えに考えた末にしか,「したいこと」は現実味を帯びない。仮に,現実に見えても,まだふわついた仮のものでしかない,と信じている。当然すべての責は,それを選択した自分にのしかかる。毀誉褒貶などという話ではない。その世界で二度と生きていけないというくらいのこともあり得る。そういう覚悟があるのなら,贅言は無用だ。

それは資格を取ったり,お勉強で得られるものではない。

苦しいことの先に,新しいなにかが見つかると信じています。

自分自身が何をしたいのかを,忘れてはいけません。

というイチローの言葉は,それを前提に見るとき一層輝く。

選択理論によれば,「前に出ること」を選択したから,ポジティブな感情と思考になる。ポジティブになったら,前向きになるのではない。過去にとらわれず,立ち止まらず,前へ進もうとする選択肢を取ったから,ポジティブな思考になる。

「やりたいこと」の方を選択するから,やりたいことが図に見え,やらねばならぬことが地になる。逆に,(その立場と役割にあるのに)「やらねばならぬこと」に向き合わず,「やりたいこと」を選択したとき,やらねばならぬことには二度と出会うことはないだろう。そういう人とは,一緒に何かをしたくはない。

だからと言って,地が消えるわけではない。考えようでは,「したいこと」と「しなくてはならないこと」は,地と図の関係なのかもしれない。「したいこと」を実現しようとすれば,いずれ,そのためにクリアしなくてはならない「しなくてはならないこと」にぶつかることになる。しかし自分にとって「したく」もない「しなければならないこと」に比べれば,それに立ち向かうのは容易だという言い方もできる。

しかし,だ。僕はそうは思わない。

「したくないこと」であろうが,
「できないこと」であろうが,
「したこともないこと」であろうが,

しなければならないとなった,そのときに,それを自分のキャパと技量を超えてチャレンジし,それをなんとかかんとかクリアした経験がなければ,自分の伸び白を極限まで引っ張り,拡大しなければならない「そのとき」の経験が,その伸び切った自分のキャパの感覚がないから,たぶんできる範囲のキャパが狭い。いや,ぎりぎりまで拡大するというその感覚自体がない。

なぜなら,「やらなければならないこと」は,逃げ道なくやらなくとはならないが,「やりたいこと」は,所詮自分の裁量内,その狭い範囲でしか,精一杯やらないという,気ままが許される。いや,許す。それをしない意志は,イチローレベルでないとない。

年寄りのたわごとだが,やりたくなくても,やったことがなくても,しゃにむにやらなければならないことを,必死でやりとおした経験がなければ,その経験の持つ意味は分からない,ということだ。

昨日ある場で,「こつこつ習慣化のすすめ」を聴く機会があったが,まさに「やりたいこと」をやるために,「やらなくてはならないこと」というハードルが出てくる。それをどう日常的にクリアするかだ。これは,また別途ブログでまとめたい。


参考文献;
ウイリアム・グラッサー『選択理論』(アチーブメント出版)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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posted by Toshi at 06:12| 日記 | 更新情報をチェックする