2013年05月17日

自分の場・場の自分


人は一人では生きていけない。人とのかかわりの中で生きる。人との結節点として生きる。しかし,ひととの関係とは,場に他ならない。

清水博さんは,「『生きている』ことと『生きていく』こととは,まったく異なることです。…〈いのち〉の居場所がなければ,生きるものは,「生きている」ことはできても,「生きていく」ことはできません。」という。

ではいのちの居場所とは何か。サッカーの例を挙げている。

サッカーの選手たちが,サッカー場という居場所に自分で自分の役割を位置づけることができるようになると,はじめて立派にチームプレーをすることができる。これと同じように,いきものも自分なりの役割を自分で〈いのち〉の居場所に位置づけることができて,はじめて〈いのちの〉与贈循環をうまく実行できる。

与贈循環とは,生きものがまず〈いのち〉を,〈いのち〉の居場所に贈って,次に今度は逆に,その居場所から〈いのち〉を贈られる。これが繰り返されるのが,〈いのち〉の循環,という。

これを生命と考えず,チームに入った状態を考える。その場に入って,自分の居場所を見つけるまでに,チームから学んだり教えられたりしながら,チーム自体の居場所を知り,その目的を知り,その意味を知り,そこでの自分のいる意味を知って,はじめて自分がそこで何をするかが見えてくる。そう考えれば,我々はいつもこれを繰り返している。それを僕は,「ポジショニング」と呼んできた。

場に位置づけられていることが存在existenceを獲得しているという事であり,これと活(はたら)きや意味に結びつかない物理的存在presenceとは違う。

自分の「ポジショニング」がわからない人は,自分の役割どころか,何をするためにそこにいるのかが,わからないので,チーム内で主体的に仕事に関わり,仕事を創り出していくことができない。それではチームの石ころ,つまり邪魔者にしかなれない。

これを細胞レベルで,説明すると,こうなるようだ。

人間でも,他の動物でも,胞胚の細胞たちは,胞胚という〈いのち〉の居場所全体のなかのどのような位置(ポジション)に自分がいるかを知っていて,その位置にしたがって,たとえば,自分が将来,手になるか,心臓になるか,脳になるかというように自分の役割を決めて,その位置にふさわしい細胞に変わっていく。…胞胚の手術をして細胞の位置を取り替えっこすると,取り替えられた細胞は,それぞれ新しい位置にふさわしい役割を発見して変わっていく。

細胞は,その働く場を得なければ,居場所がなく,居場所があってはじめて,どうなるかが決まっていく。清水さんは,これを,「生命の二重存在性」と呼び,次の様に説明する。

その第一は,生命という活(はたら)きは自己の存在を自己表現,あるいは自己創出する活(はたら)きであるために,場に位置づけられなければ生き物は一つの決まった形(表現形)を取れないということである。そしてその表現形は,局在的生命と遍在的生命のあいだの創出的循環のために,一定の状態に留まることができない…。生命の自己表現性とは,生命は場に位置づけられた存在をその場へ表現するかたちで活(はたら)いているということである。生命はそれ自身をそれの上へ表現する「場的界面現象」(場的境界の生成現象)であるといえる。生きものは,その存在を場に表現するから場においてコミュニケーションができるのである。

これを清水さんは,ふたつのモデルで説明されている。

ひとつは「自己の卵モデル」

①自己は卵のように局在的性質をもつ「黄身」(局在的自己)と遍在的性質をもつ「白身」(遍在的自己)の二領域構造をもっている。黄身の働きは大脳新皮質,白身の働きは身体の活(はたら)きに相当する。
②黄身には中核があり,そこには自己表現のルールが存在している。もって生まれた性格に加えて,人生のなかで獲得した体験がルール化されている。黄身と白身は決して混ざらないが,両者の相互誘導合致によって,黄身の活(はたら)きが白身に移る。逆もあり,白身が黄身を変えることもある。
③場所における人間は「器」に割って入れられた卵に相当する。白身はできる限り空間的に広がろうとする。器に広がった白身が「場」に相当する。他方,黄身は場のどこかに適切な位置に広がらず局在しようとする。
④人間の集まりの状態は,一つの「器」に多くの卵を割って入れた状態に相当する。器の中では,黄身は互いに分かれて局在するが,白身は空間的に広がって互いに接触する。そして互いに混じり合って,一つの全体的な秩序状態(コヒーレント状態)を生成(自己組織)する。このコヒーレント状態の生成によって,複数の黄身のあいだでの場の共有(空間的な場の共有も含む)がおきる。そして集団には,多くの「我」(独立した卵)という意志器に代わって,「われわれ」(白身を共有した卵)という意識が生まれる。
⑤白身が広がった範囲が場である。したがって器は,白身の広がりである場の活(はたら)きを通して。黄身(狭義の自己=自分)に「自己全体の存在範囲」(自分が今存在している生活世界の範囲)を示す活(はたら)きをする。そして黄身は,示された生活世界に存在するための適切な位置を発見する。
⑥個(黄身)の合計が全体ではない。器が,その内部に広がるコヒーレントな白身の場を通じて,黄身に全体性を与える役割をしている。現実の生活世界では,いつもはじめから器が用意されているとは限らない。実際は,器はそのつど生成され,またその器の形態は器における人間の活(はたら)きによって変化していく(実際,空間的に広がった白身の境界が器の形であるという考え方もある)全体は,卵が広がろうとする活(はたら)きと,器を外から限定しようとするちからとがある。
⑦内側からの力は自己拡張の本能的欲望から生まれるが,外側からの力は遍在的な生命が様々な生命を包摂しようとする活(はたら)きによって生まれる。両者のバランスが場の形成作用となる。

場そのものの変化を動態的に考えるために提唱されたのが,もう一つのモデル,即興劇モデル。

卵モデルの黄身に相当するものが,「役者」であり,器が「舞台」の境界で,その器の中に広がる白身に相当するのが,「舞台」であり,「観客」として遍在する生命がある,という関係性で見ることができる。即興モデルでは場は即興的に演じられるドラマの舞台ということになる。そして場所(卵の入った器が置かれているところ)が役者,舞台,観客が存在する「劇場」に相当する。役者は観客の共感を呼ぶドラマ(活(はたら)き)を演じることが必要になる。

場の変化をドラマ的時間に位置づける自己(局在的自己,自己中心的領域,黄身)とその自己(黄身)の演技をドラマ的空間に位置づける場としての自己(遍在的自己,場的領域,白身)の二つが相互誘導合致の過程で交互に循環的に活動することによってドラマが進行する。

舞台とは,意識の野であり,観客の活(はたら)きは意識の野を含めて,その外に広がる無意識の活(はたら)きでもある。それは,

局在的自己(黄身)は遍在的自己としての場(白身)に対してつぎの変化を繰り返しながら自己表現を(循環的に)つくりだしている。すなわち,場を受け入れる,自己を場に位置づける,場における自己の存在を自己表現をする。この時場の束縛から踏み出して新しい自己表現を創出しようとする。他方,場がおこなう変化は,局在的自己の自己表現(部分的表現)を包み込む全体的表現を生成し,局在的自己の新しい自己表現を待つ,の繰り返しである。

局在的自己(黄身)の重要な性質として,それが場(白身)に位置づけられて存在しているときには,その自己の存在を身体によって場に自己表現するという性質がある。場に位置づけられた自己は,「顔のある個」であり,その存在は個物的である。場において自己表現がなされる結果,場が変化する。場が変化すると,新しい位置づけが必要となる。そのことによって新しい自己表現がなされ,場がさらに変化することになる。

この時必要なのは,現在存在していない未来の舞台(場)を創造することだ,と清水さんは言う。場の外に立ってどのように見るかを考えなければ,未来は見えない。

場は人間の意識がつくり出す空間であり,要素サイクルに伴って絶えず生成と消滅を繰り返している。場の大きな変化は意識の野の変化であり,場(意識)の外からやってくる。場の未来は観客の活(はたら)きを至って外側から訪れるのである。

場には,三種類ある,と清水さんは言う。

ひとつは,生活の場。リアルタイムにドラマを演じている場だ。その場で,どんな選択肢を取るかを日々決断し,選択している。それをさせているのが,人生の場。自己(局在的自己,黄身)は,その内部に様々な生活の舞台における体験を記憶し,その体験を人生の場で編纂し,自己の歴史ドラマの中に位置づけている。だから,人間は自分が作った人生という歴史ドラマの筋に基づいて容易に判断を下すことができる。もうひとつが生死の場。個としての生命が確実に死ぬことを前提としている場である。それは,局在的な生命の生と死で一つの状態になっている場であり,局在的な生と死が生と死で一つの状態になっている場でもある。

石原吉郎の詩がある。

死はそれほどにも出発である
死は全ての主題のはじまりであり
生は私には逆向きにしかはじまらない
死を<背後>にするとき
生ははじめて私にはじまる
死を背後にすることによって
私は永遠に生きる
私が生をさかのぼることによって
死ははじめて
生き生きと死になるのだ(「死」)

未来から見るとはこういうことなのかもしれない。

ともかく,いくつかの卵の白身が互いに混じり合って,コヒーレントな状態状態(共時的な状態)をつくっているとき,黄身の相互関係も,「我と汝」(個が互いに向き合う関係)となったり,「我々」(互いに同じ側に立つ関係)となったりする。それは,黄身の自己中心的な活(はたら)きが白身による吸引力(同一化力)より大きいか小さいかで決まる。

白身と黄身の関係には,慣れが起きる。そこに閉塞状況が生まれる,と清水さんは指摘する。マンネリ状態である。それには,次のどれかが起きている。

①舞台の上に自分の現在の現在の状態を位置づけられない
②最初に設定した目標の位置が誤っている
③自分の位置と目標の位置との間の空間が複雑であるために,目標に近づけない

どうだろう。いささか狭い気がする。目標というより,目的や意味が見いだせないか,見誤っているか,ではないのか。目的が見えないから,目標が位置づけられず,自分の位置が見えない。

でもいずれにしろ,その瞬間,

もしこの位置づけができないときには,即興劇の舞台の上には存在していないことになるから,舞台から外れて個人になっていることを意味している。

これを機に,舞台を外から見る,という視点の転換がいるのかもしれない。

舞台づくりとは,出会いの場づくりのことであり,舞台では,様々な役者が演じる多様な演技を受け入れて一つに統合し,それを一つの即興劇としてイメージする想像力が必要になる。この即興劇を舞台設計から考えていく知的な活(はたら)き,つまり構想力が必要である,という。それには,

パトス(情)を共有すること,即ち共感の場づくりから始めることが必要である。と同時に,それを一時的な昂揚にとどめないために,ロゴスを共有することが必要である,と。

その意味と目的の共有であり,そのための道筋を描くことができていなくてはならない。つまり,

実践の論理には,まず実現したい夢が必要である。…夢を具体化しようとし続けることから未来に関するイメージが次第に明確になり,やがて具体的な目的として共有できるようになる。夢のある明確な目標を共有し,それを実現するための舞台を想定することから変革のイメージが生まれ,そのイメージをビジョンにすることから戦略が生まれてくる。戦略が生まれてくるためには,イメージに具体的な携帯電話を与えなくてはならない。

だから情と論理がいる,ということである。

しかし,実際に場づくりをしようとしてみると,人と人との袖振り合う感覚で接点ができ,お互いが場を意識しあうというところまでは割と広がる。しかし詰めてみると,実はそれぞれの「夢」自体が,微妙な齟齬があり,その差は意識すればするほど大きくなっていく。結果として共通の夢を具体化するところまでいけないことが多い。場づくりは,そうたやすくはないことに気づく。そこまでの処方箋はどこにもない。

ただ人との接点の中で,白身が接することで場ができ,そこで黄身にも影響が出る。だから,その場を永久と考えるよりは,あっては別かれ,別れてはまた会うのの中で,自分の居場所となる場所がつれていくのではないか,と考えることもできる。そういう場をいくつも,多層に,多面に持つことが,その人の黄身を豊かにしていく。命のポジショニングは,その人にしか見えない。それでいいのかもしれない。そんな気がし始めている。

参考文献;
清水博『コペルニクスの鏡』(平凡社)
清水博『場の思想』(東京大学出版会)

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http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





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posted by Toshi at 05:53| Comment(4) | 日記 | 更新情報をチェックする
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