スイッチ
コーチングを受けていて,自分が,時々思考を中断したり,自己との対話を中断して,別のことを言いだしたり,別のことに関心を向けたりする,と指摘された。まあ,目まぐるしく思考が展開し,その都度他へそれる。言ってみれば落ち着きのない,うろつき症候群というか注意欠陥・多動性障害(ADHD)のような思考パターンということだ。
かねがね自分は,人と話していても,話が先へ先へと進み,聞いている人が追いつかないと言われたことがある。こういうのを,NLPでは何たら,と言ったように記憶しているが,ほとんど忘れている。ラベル貼りには興味がない。貼られた瞬間に,自分もそうだが,現実は動く。動くことで,ラベルとの間に隙間風が出る。必要なのはその感性で,貼ったラベルに拘泥するのは,頭が固いが,自己防衛か,「這っても黒豆」という強弁かのいずれかだ。
そういう自分の落ち着きなさというか,情報の切り替えの早さというか,関心や注意のスイッチの目まぐるしい変換は,どうも昔かららしい。
しかし無意識でそれを切り替えているが,それを意識的にできるということについても,少し体験がある。例えば,出張で,移動中,ここでは,何々について考えようと意識を向けると,それについてのアイデアや着想が連続して出てくる。それをそこでやめないで,しばらく持続していると,それについての発想が動き始める。
当然切り替えて,懸案のことについて思いをはせると,そこで頭が動き出す。別に僕だけの特技ではないだろうが,それを平行して,意識的に進めていけるところだろうか。ただ,考えているA,B,Cという三つの課題があるとすると,しばらくAに意識を向けて,アイデアが煮詰まったら,Bにいく。そこでいくつか発想がわいて,疲れたら,Cに行く,というぐあいだ。その場合,大概メモを取りまくる。書くとそのことが刺激で,着想が続くことがある。
これが僕にとってのスイッチで,これは意識的にしようとすれば,できる,ということの再確認なのだ。つまりは,意識的に「~について」考えようと,意識を向ける。それだけだ。
もうひとつ最近気づいたことがある(と,ここでスイッチが切り替わる!)。それはこのスイッチと関係があるかもしれないが,自分の思考スタイルというか知識スタイルについて,確か,野中郁次郎氏は,「知識は思いの客観化プロセス」というようなことを言っておられたと思うが,僕にとって知識は蓄積型ではない。どういう意味かというと,誰それがどういった,どういう説だという,人の意見や考えを蓄積して貯め込むことに全く関心がない。ではどういうスタイルかというと,フロー型なのだと思う。貯め込むことはない。
そのつど,そのつど現実と葛藤しながら,考えている。だから,その時々に読んだ本が,そのとき,自分の葛藤を切抜けていく支えになっているが,どれか一つに依存することはない。あくまで,その時,そこで,それが役に立ったという意味でしかない。だから,僕は学者ではない(というかとてもなれない)。知識を蓄えることにも,知識を伝達することにも,関心はない。そのせいか,自分の尊敬する人とか傾倒する人と言われると,即答ができない。流れていくからだ。
あくまで,知識や本は,いま生き抜いていくためのサプリメントか食物に過ぎない。だから,何たらノウハウ本とか,何々の入門という本には関心がない。それはその人の排便した(尾籠な話で失礼!)滓に過ぎない。その人が咀嚼したノウハウなんぞ,その人に役に立つかもしれないが,他人に役に立つはずはない。ハードルが高くても,敷居が高くても,きちんと自分の考えをまとめているものを読む。
その都度生きている間に,いろんな体験をし,本を読みつぐ。それがその都度の自分の思考や思いや考えと刺激しあいながら,その都度の考えが生まれてくる。それは完全に流れていく。たまることはない,しかしそれは蓄積されないので,その時そう考えたことは,5年後は,その通り蓄積されておらず,微妙というか,変化しつつ,いまの中に流れ込む。
だから(だからと言っているが,つながっていない。ここでスイッチを切り替えている!)軸がないように見えるが,違う。僕は基本左シフトだ。アンチ権力であり,アンチ・エスタブリッシュメントであり,反権威である。これは,父から受け継いだものだ。父は,日中戦争の初期,上海敵前上陸で上陸部隊がほぼ全滅,わずか数十人の生き残りとして,戦傷し,それから戦中戦後を生きてきた。そういう生きのこりのものの視点は,戦争にいきもせず戦争ごっこの大好きな政治家どもとは全く違う,その意味で頑固であり,頑迷な反権力思想といっていい。大義なき無名の師で,危うく殺されかけたものが殺そうとしたもの,おのれは安全なところで逃げ隠れし,民を意味なく死地に追いやったものを好きになるはずはない。人間ならね。
だから(と,またここでスイッチが切り替わっている!),右翼は当然,自民党も半分以上視野の外だ。しかし,というか,にもかかわらずというか,義理と人情で,何の因果か自民党の某代議士の選挙応援に行く羽目になった,もうん十年前のことだ。そこでは当の代議士の応援電話をし続けると同時に,別の選挙区の公明党代議士との票の融通の仕合,お互いにバーターで電話による応援しあいをすることになったり,現金数千万を紙袋に入れて持ち運んだりと,案の定,自民党の腐れ具合をもう何十年も前に実体験した。おまけに,その某代議士,わずか一週間で内閣総辞職したにもかかわらず,大臣経験があるというだけで得体の知れぬ利権を持ち,自治体や公的な機関の開発した土地の売買について,買い手から,何らかのリベートを当然のように受け取っていた(確認したかぎりその元大臣はうん億円を濡れ手で粟だった)。こういう実態を見てもなお,政権政党を信用する人は,何らかの利権のおこぼれに与ろうとする人と決まっている。現に,元法務大臣のその代議士のところには,小は,交通事故のもみ消しから,大は新規の航空路線の開設相談まで,蜜に集まる蟻のように,様々な人種がやってきていた。今政権に復帰した自民党各代議士のところへはさぞかし蟻が殺到しているだろう。
そのときの選挙応援をしに集まった仲間とは,いまも年に一度会うが,その時その代議士の私設秘書だった人,大臣の助力を求めてきたトラック会社の御曹司,私設秘書の秘書等々,(僕以外)みなばりばりの自民党支持者だったのにいまや自民党を見限ってしまった。その実態を見た人間だけが,そこで,おのれの思想の限界というぎりぎりの修羅場を体験した人間だけが,真実につながると,つくづく思う。それは地震や津波といった被災体験や地獄のような,あるいは戦場体験のような外的な体験を言っているのではない。修羅場とは,心的体験でしかない。自分のさまざまな限界,自分のさまざまな弱み,自分のさまざまな無知等々と格闘した心的葛藤を経て,自分を乗り越えた人間だけが信じられる。
さて(でやっと,コーチングに戻る),話が横へ逸れた。コーチングの最後に,いまはやりのコーチングゲームのカードを引かしてもらった。過去→現在→未来についてだが,引いたのは,過去がreflection,現在がgoal,未来がguilt。どんな解釈も可能だが,少なくとも,最後自責に駆られるらしい。いまひとつ,かえるカードも引いたが,それは,「1豊かさ」であった。
だがたまたま引いたカードで,自分の未来を思案するというのは,僕の趣味ではないので,あんまり深くはそこから意味を出すことはしない。そんな偶然を必然にしてはいけない,と考える。特にその時は裏返しのカードを引いたので,たまたま偶然の出会い,偶然の出来事をどう解釈してもいいが,そこは出発点であり,そこで,いまの現実をどう動かすか,関係性なら,それをどういう風にしていくかは,これからの現実の自分の選択であり,意思だ。出たカードをこれからの自分を動かす梃子にしてはならない。それが僕の鉄則だ。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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