間(ま)



先日,「第5回 月刊☆西澤ロイ 人生を変えるコトバの宇宙トークライブ」に参加させていただいた。今回のトークテーマは,「なんとなく(間)」。

間(ま)というのは,間(あいだ),字義通りに言えば,隔てであり,隙間であり,時間的,空間的に「間(あいだ)」を指す。空間的には,あいている空間であり,時間的には, 時間を空間をイメージして断続性を言っている。リズムとか,調子とか,機とか,瞬間とかと,間(あいだ)の配置の長短で使い分けている。間があく,間に合わない,間が悪い等々。その「距離」は,いわば,客観的に測れると同時に,主観的には無限の広がりを持っていたりする。

だから,「間(ま)」に焦点をあてると,見えていたり,聞こえていたりするものの背景にある,「間(ま)」という空間がある。「間(ま)」があるから,言葉が活きる,間(ま)があるから,動作が際立つ,(ま)間があるから,両者の関係がクリアに見える。

漢字をじっと見ていると,見慣れた漢字が,見慣れぬ記号に変ずることがある。それは,「図」として見ていた形が崩れ,間(ま)の中に溶けていく感じである。ロイさんの言っていた,各構成要素のつりあった全体像が崩れて,一つ一つの要素が「図」として主張をはじめるために,全体としての字の「図」が崩壊するのに近い。それは,それまでの「間(ま)」が,間合いを変えてしまったという言い方もできる。

僕にとって,「間(ま)」ということで,瞬間にイメージしたのは,20代に初めて,武満徹の『ノヴェンバー・ステップス』を聴いた時の衝撃だ。音ではなく,音のしていない「沈黙」で『ノヴェンバー・ステップス』という作品世界を伝えていた。その音の音の間の沈黙が,間(ま)の僕のイメージだ。その時同じLPには,現代作曲家の音楽が入っていたが,いかにも現代風の不協和音の連続とその曲とは好対照であった。

間(ま)は,「ある」ときではなく,「ない」ときに,その存在が意識される。「ない」のではない,「ない」ことを主張している。間(ま)とはそういうものだ,と感じた。尺八と琵琶の音がしているときではなく,していない時に,その音の存在が際立ってくる。

この先駆けは,例の,ジョン・ケージ「4分33秒」。この作品(?)は,沈黙をそのまま作品世界としている。この曲の楽譜には,楽章を通して休止することを示すtacet(オーケストラにおいて,特定の楽器のパート譜に使用される)が全楽章にわたって指示され,演奏者は舞台に出場し,楽章の区切りを示すこと以外は楽器とともに何もせずに過ごし,一定の時間が経過したら退場する。いわば「無音の」音楽である。

ところが,その沈黙が,演奏会場内外のさまざまな雑音,すなわち,鳥の声,木々の揺れる音,会場のざわめき,しわぶきなどを際立たせる。

「ない」ことが別の「ある」を際立たせる。これは,「有」と「無」という区分けより,認識上の「図」と「地」なのではないか,という気がした。「間(ま)」は,言葉に焦点が当たっていない限り,「地」になり,背景に引っ込む。しかし,言葉ではなく,言葉と言葉の間隔や沈黙に焦点をあてた途端に,それ自体が「図」として前面に出て,主張を始める。

言葉ではなく,あるいは語られていることではなく,その言葉の乗っている身体や声,リズムやテンポが,「間」になることもある。

僕は武術をやらないから素人判断だが,間合いとか,見切りとは,両者の間のぎりぎりの隔てを計っている。その精妙な感覚が,「間」から見た時,相手のあり方や構えとは異なるところで,距離が際立つ。切っ先と切っ先の間だけが生き物のように伸び縮みする。ちょうどゴム紐を引っ張り合っているのに似ている。立ち会う両者ではなく,両者の「間」に焦点をあてると,その隔てだけがひとり「図」となる。だから,その間合いを見切り,どちらが瞬間の「機」という「間(ま)」を破って,踏み込むかどうかにかかってくる。ほんの一瞬の「機」の見極めになる。

その意味で,「ない」とみればネガティブになり,「ある」と見るとポジティブになる,という言い方をロイさんがしたのは,いわば,認識上の「図」と「地」で,そのことによって,見える世界が変わっていく。

だから言霊という言い方をしたとき,言葉が乗っている精神性というものを言っている。そちらを「図」として着目すると,言葉の意味が,オセロゲームのようにひっくり返る。

ソシュールのシニフィアン(意味するもの=記号表現)とシニフィエ(意味されているもの記号内容)は恣意的といったが,それはロイさんの言う通り,そこに意味はない。そこに,意味を読み取ろうとすることで,象徴性や精神性が出る。それを「間(ま)」と呼んでもいい。つまり,見えないものが,言葉と言葉の「間」に読み取れることで,言葉に影のように意味がついてくる。この場合,「間(ま)」に焦点をあてると,言葉という存在自体に霊性がついてくる。

そう考えると,「間」の上に言葉が乗っている,「間」の上にものがある。「間」を文脈とか状況と置き換えてもいい。ますます「図」と「地」に近くなるか。たとえば,「0」と「1」で言えば,ゼロは「無」ではなく,「0」が「ある」。そう考えると,「有」と「無」も,「無」は「無」としてある。

太陽と水星と原子核と電子のアナロジーも,それ乗っている「間(ま)」に着目すると,別のものが見えてくる。光学的には観測できない(つまり見えない)暗黒物質(dark matter )を仮説することで,星の運行が見えたりするのも,同じである。

ところで,『易経』では,「一陰一陽,これを道と謂う」とある。一つの陰と一つの陽とが相対立して固定して存在するという意味ではなく,天地の間にあるいは陰となりあるいは陽となって変化する意味だという。そう考えれば,「無」と「有」もまた,その意味で見られなくもない。

だとすると,もう少し突っ込んで,それがオセロゲームのように,いきなり「ある」と「ない」がひっくり返るというより,グラデーションのように,0と1の間に無限の懸隔があると考えるほうが面白くないだろうか。「ある」と「ない」を二者択一ではなく,二項対立ではなく,無数の,「ある」ようで「ない」,「ない」ようで「ある」,が連続していると考えるとどうだろう。

そうなると,ただの「ない」は,永遠のかなたにしか存在しない。そこに抜け出せない「これっきゃない」的な土壺はないことになる…というのはどうか。


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