にあわないけど愛かやさしさについて


何だろう,「愛」とか「優しさ」に関わるものを拾っていくと,石原吉郎の,緊張感をなくすことへの,凛とすることへの意地と,それを失うことの恐怖のようなものを感じた。思い入れ過多のせいかもしれない。

こんなにつきあうと
思ってもみなかったな
つきあっていて なんど
君に出会ったかな
つきあえばいいと
いうものではない
つきあえばというものでは
行ってくれ
どてんとしてくれるな(「つきあい」)

しかしそこには,てれがある。そういいながら,照れている自分がいる。それを言葉としては,逆に出る。

愛することは
海をわたることだ
空を南にかたむけて
水尾の行く手へ
たわんだまま
はるかなものと
なってわたることだ
ひとはかがやかしくて
ゆえに告げおわる
香料の未明へ
翻る蹄鉄を
墓はひそかに埋めもどし
荒廃のまえの
さいごのやさしさとなって
愛することは
海をわたることだ(「海をわたる」)

その海峡(と勝手にイメージした)を,「たわんだまま/はるかなものと/なってわたることだ」に,おのれの側の思い切った身の投げ方が見える。

でも,そういいながら,

どのような海を
わたったにせよ
わたったものは
海とはちがう
海とはちがうわたった
ものへ託されたものは
海とはさらに
ちがうものだ(「ちがう」)

と言ってしまう。両者の間の差異が,溝が見えてしまうようだ。

そこまで無理をする,そこにやさしさがある,といえるかもしれない。それは,しかし意地でも口にはできないような。だから,

やさしさはおとずれるものだ
たぶん ふいに
ある日の街かどのある時刻に
であいがしらに
わしずかみされる
逃げ場のない怒りのような
このやさしさ
空は乱暴に晴れていて
いちまいの皿でも広すぎる
しずけさへおとす
波紋のような
やさしさの果ての
やりきれなさは
ひとつまみの吸殻で
ふっきれるか(「やさしさ」)

やさしさについて,「ふいに」「やさしさはおとずれるものだ」とか「であいがしらに/わしずかみされる」等々とは言わない。「やさしさの果ての/やりきれなさ」とは,ふつうは決して言わない。でも,よくわかる。なんだろう,そこに,言い知れぬ照れと含羞を感じてしまう。それを「かわいい」と言っては,身も蓋もない。

あからんで行くことで
りんごの位置を
ただしくきめるのは
音楽だ
うかべることで信仰は
すべてその
位置をきめる
あからんで行くことで
成熟は その
すべての音楽となる(「音楽」)

「あからんで行く」というところに,ちらりと正直さが垣間見える。

石原に,こんな句があった。

強情な愛の掌ひとつ青林檎

女の手をんなにともす秋の灯

でも,微妙なすれ違いは見逃していない。

おのおのうなずきあった
それぞれのひだりへ
切先を押しあてた
おんなの胸は厚く
おとこは早く果てた
その手を取っておんなは
一と刻あとに刺したがえた
ひと刻の そのすれちがいが
そのままに
双つの世界へあたりを向かわせた(「相対」)

その関係は,

隠蔽するものの皆無なとき
すべては平等に死角となる
隠蔽ということの一切の欠如において
われらは平等にそして人間として
はじめて棒立ちとなるのだ(「死角」)

ただ見えないところのない,真っ裸な状態で初めて「平等」という。それは微妙な拮抗の中で,緊張した釣り合いを保つ関係だ。

直前の青と
直後のみどりは
衝撃のようにうつくしい
不幸の巨きさへ
そのはげしさで
つりあうように(「不幸」)

みどりと青は,日本語ではほとんど同じだ。翠とも碧とも書く。みどりの幅は広い。その微妙な差異を拮抗させる。

詩 それは
海からこぼれて
空になるように
空からこぼれて
海になるように
そのように書かなければ
いけないものなのです(「書く」)

これも,その意味で読むと,別の視界が開く。

海は断念において青く
空は応答において青い
いかなる放棄を経て
たどりついた青さにせよ
いわれなき寛容において
えらばれた色彩は
すでに不用意である
むしろ色彩へは耳を
紺青のよどみとなる
ふかい安堵へは
耳を(「耳を」)

僕はここに選択した孤独を見る。孤独については,別に書く。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#石原吉郎
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