常識


先日,【第6回 月刊☆西澤ロイ 人生を変えるコトバの宇宙トークライブ】に参加させていただいた。今回のテーマは,「常識」。

https://www.facebook.com/events/112888575581725/#!/events/327114030750188/

事前に,ロイさんからは,

今回は「常識」がテーマですので,「脱常識力」についてお伝えする予定です。
常識を掘っていくと,
・善悪
・社会システム
・宗教
・美
・歴史
・暗記
みたいな話に広がるかなーなんて思ってます。「作られた常識」に気づかない人ってホント多いと思うんですよ。その辺についてふかーく突っ込みたいなと思います。

冒頭,アインシュタインの「常識とは18歳までに獲得した数々の偏見のことである」という言葉から入ったが,確か,アインシュタインは,知識というのは,「我々に刷り込まれたものの見方の集合体」とも言ったので,「当たり前」としていることを崩さない限り,先への視界は開かない。

しかし常識をどういう視点で見るかで,その意味も効用もかわる。例えば,

常識があることで助かっていること,

と設問すれば,それによって楽だということが出てくるだろう。いわゆるソーシャルスキルというものは,その類で,その意味では,常識は,しきたりだったり,ルールだったり,慣習だったりする。その分,定義はあいまいで,地域によっても,人によっても,解釈が違う。いっとき,「俺流マナー」という言い方で,たとえば,

エレベーターを途中で降りる人は,「閉」ボタンを押してから降りるべきだ,
飛行機でリクライニングを下すときは,後ろの席の人の許可を求めるべきだ,

と解釈し,言いあいになったケースがあると新聞で見たことがある。いわば,グレーゾーンがついて回る。だから,塩月弥栄子が『冠婚葬祭入門』で,言い切ってしまうことで,個人任せにされていたあいまい部分を「ルール」化してしまい,古くからのしきたりをもっている人を激怒させた。つまりは,常識というのは,あいまいな部分があるからいいのだ,とも言えるし,あいまいだから,困るともいえる。

ロイさんは,「常識はない」と言い切った。「皆が思っていると思い込んでいる」ことに過ぎない,というわけだ。まあ,現象学的な言い方をすれば,その通りで,クオリアでも,赤は赤としているが,人によって見えている色は違う。しかし「赤」ということで収めている。これが,言ってみると,関係性の中で,社会を構成していく「共通項」を,暗黙で,いちいち質したりしないでやっていける,人間のよさかもしれない。社会構成主義は,そこに力点を置くことで,相対性に意味を見出している。

では常識があると困ること,

と設問すればどうなるか。アメリカの作家アーサー・C・クラークは,

権威ある科学者が何かが可能というとき,それはほとんど正しい。しかし何かが不可能というとき,それは多分間違っている,

と言っていた。この場合,常識をパラダイムと置き換えることができる。有名なトーマス・クーンの,パラダイム・シフト(あるいはパラダイム・チェンジ)である。

前と同じデータの束を捕まえて,それを違った枠組みの中にいれ,新しい関係の中に置く,

という。これをハンソン流に言い換えれば,

なぜ,同じ空を見ていて,ケプラーは,地球が回っていると見,ティコ・ブラーエは,太陽が回っていると見るのか?あるいは,同じく木から林檎が落ちるのを見て,ニュートンは万有引力を見,他人にはそうは見えないのか?

ということになる。つまり,われわれは対象に自分の知識・経験を見る。あるいは知識でつけた文脈を見る。「われわれは知っているものだけをみる」と言ったのは,ゲーテだが,現代の我々は,

宇宙空間の適当な位置から見れば,地球が太陽の回りに軌道を描いていると(知っていることを)見ている。十三世紀の科学者は,太陽が地球の回りに描く軌道(プトレマイオスの天動説)を見ている。見ているのは知識なのだ。つまりそれがパラダイムということになる。

パラダイムは,存在しないのではなく,パラダイムは,その次代と文化を同じくするものに,共有化(されているという信頼関係)のもとに,社会が動いている,ということができる。

しかしそれを崩して,新たなものを創り出す,発見する,ということを目指すものにとっては,それは足枷そのものになる。そのとき,常識は,あいまいで,ふわふわした雲状だったものが,強固に屹立する壁になる。

ところで,ロイさんが,翻訳について語ったところには,ちょっと気になることがあり,感じたことを追加しておきたい。

たとえば,ロイさんが例を挙げて,

Give me some water.

と言ったとき,「水」と直訳したのでは,言葉を理解したことにはならない,といい,waterには白湯も入る,と言われた。これは,言葉が,現実の文脈に依存しているということを忘れて,言葉レベルだけで言語変換することは,真の意味の翻訳ではない,という意味では同感できる。ある意味翻訳は,言語の直接的な取り替えではなく,その言語の背景にある,文脈に立ち戻り,そこから,言葉を選び直す作業なのかもしれない。そうなれば確かに,その言語理解は深まる。

例えば,写真家の星野道夫さんは,イヌイットの老人が,「自分たちの暮らしを,自分たちの言葉で語りたい。英語ではどうしても気持ちをうまく伝えられん。英語の雪はsnowでも,わしらにはたくさんの雪がある。同じ雪でも,さまざまな雪の言葉を使いたい」と言っていたのを思い出す。イヌイットには,雪といっても,

アニュイ(降りしきる雪)
アピ(地面に積もった雪)
クウェリ(木の枝に積もる雪)
プカック(雪崩をひきおこす雪)
スィクォクトアック(サンクラスト-一度溶けて再凍結-した雪)
ウプスィック(UPSIK 風に固められた雪)

等々いっぱいあるらしい。それは,言葉が,文脈に依存しているからで,それを言葉レベルに置き換えるとき,美味様な誤差が出てくる。その違いが分かっているかどうかという意味では重要な点だと思う。

とりわけ日本語は文脈依存が強く,たとえば,「さようなら」は,

さようなるわけなのでおわかれします,

となり,その場,そのときにいっしょにいた人にしか,「さようなるわけ」は共有できない。その依存性は,

では,

じゃあ,

しからば,

という別れの挨拶にも現れる。あえて解釈すれば,「そういうこと」なので,が言外に含まれている。「そういうこと」は,そこで同じ文脈を共有した人間にしかわからない。同じ場にいたら理解できるかと言うと,それも丸めてしまわれると,反発する者もいる。かつて上司が,会議を締めくくる時,

「じゃ,そういうことで…」

といったら,女子社員に,

「そういうことって,どういうことですか」

と,食いつかれた場に居合わせたが,常識の持つ危うさと,そういうことでとあいまいにしたくない場合は,そのあいまい領域を明確にする必要がでてくる。そういう人は,日本では嫌われるらしいが,言葉レベルでわかったふりをする人は,たぶん行動には移さない。


トーマス・クーン『科学革命の構造』(みすず書房)
ノーウッド・R・ハンソン『知覚と発見』(紀伊國屋書店)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




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