自己表現


先日,【第1回 表現の世界で生き続けている人は日々,何を想っているのか(アート・漫画・演劇 クロストーク)】
に参加させていただいた。

https://www.facebook.com/events/112888575581725/

アートディレクターの竹山貴さん,
女流漫画家の渡邊治四(ワタナベジョン)さん,
元俳優で今は作家の飯塚和秀さん,

三人のクロストークなので,「表現の世界で生き抜く」の中で,それぞれ語りたいこととして,

渡邊治四さんは,「表現の違い」
竹山貴さんは,「10年続ける原動力」
飯塚和秀さんは,「下積み時代」

を挙げらけれたが,そのときは聞き流していたが,いまこう振り返ってみると,こう挙げた切り口自体に,それぞれなりに,ご自分の,それぞれが拘泥するところ,あるいはこだわり,が見える気がする。あるいは,根っこというか自分が拠って立つ根拠というか,それがあるから,いまの自分の表現がある,というような,独自のマインドというか姿勢がある。もっと突き詰めると生き方がある。

渡邊治四(ワタナベジョン)さんは,「漫画が好き」だという。しかしその「好き」な漫画を表現する場というか,発揮する方法というものが,見つからず,ようやく,ビジネスの世界に自分の居場所を見つけた。たぶんその表現の仕方というか,その線の描き方ひとつに,違いを意識されているのではないか…。

竹山貴さんは,閉塞された業界の中で,新しい顧客と新しい作家の発見と育成の悪戦苦闘をされている。「まじめにやっているものが報われない社会はおかしい」「(正々堂々,才能ひとつで入れる)正面玄関を創ってやりたい」という。言ってみれば,業界そのものをリセットしたいというほどの孤軍奮闘を続けている。「10年」には熱い思いがこもっている。

飯塚和秀さんは口癖で,あの時はわからなかったことがいまならわかる,という。その意味でいまリベンジをしている。その眼で見れば,過去は金城湯池に他ならない,のだと思う。過去にご自分が鍛え上げた基礎力というか誰にも知られない,たとえば,演技を学び,脚本を学び,現実に芝居の脚本を書き,芝居を打ち,その他様々な経験と知識をえてきた等々,いまそのリソースは,改めてみると誰にもない絶対的な差別化の商品力そのものに違いない。

それぞれは,次回以降にさらに,深掘りされることとして期待するにとどめて,別のことを取り上げてみたい。

最後に参加者のお一人(加藤実さん)が言っておられたのを自分なりに要約すると,実は,すべての人がそれぞれなりに,表現者なのではないか。西澤ロイさんが,このクロストークの前日,ご自分のトークライブで,

どんなに失敗しても,その時点でできることを精一杯やっている,

という趣旨のことを言っておられたが,性善説の僕流に言い換えると,

すべての労働は自己表現,

なのだと思う。良くも悪くも自己を外在化しなければ,仕事はできない。問題は,そう思って,自己を表現するつもりで仕事をしているかどうかだ。いつも僕は言っているが,新人のころ,上司は,

この会社に自分の引っ掻き傷を残せ,

と言った。僕は自分がいた痕跡を残す,と受け止めた。それは,自分の仕事で言えば,自分が開発した商品を残すこと,これが「何々さんの仕事」と言われるものを残すことと,受け止めた。

その意味で,そこに自分の表現がある。その表現は,自分の生きざまが出る。僕は,それを自分の仕事に旗を立てる,と呼んできた。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11129007.html

自己表現である以上,自分が出る。その自分をどれだけ意識して生きているかが,あるいは生きてきたかが,そこで出る。表現は,自分の人生,自分そのものの「つけ」(結果)としてしか表せない。

それは,たぶん,飯塚さんが言っていた,持続させるのは「思いの強さ」という。ぶっちゃけて言えば,意地の強さ,と言っていい,と。

確かに,意地,言葉を換えれば,「くそっ!」負けてたまるか,というような歯を食いしばる思いだ。それは働くものには,いやいやすべての人間に共通する。その背後にある,矜持の大きさが,人を駆り立て,努力させ,悪戦苦闘にも,倒れず立ち上がらせる。

器量の大きさは変えられないかもしれないが,度量と技量と力量は変えられる。

10年一剣を磨く

ということわざがある。虚仮の一念という言葉もある。10年よりは,その一念の方に意味がある気がする。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





#飯塚和秀
#渡邊治四
#竹山貴

この記事へのコメント