自己限定との格闘


まあいいか,
こんなもんか,
しゃあない,

といった自分の声と戦ってきた。誰もがそうだが,内心で自分に諦めというか,諦念を誘う声がいつもある。その方が楽なのかもしれない。

一生自分との戦いは続く。自分を受け入れるというのは,自分をそのまま受容すること,しかしそれはいまの自分に自足することではない。いまの自分の生き方やいまの自分のあり方やいまの自分の振る舞いに,「是」ということではない。それは,いまの自分だが,自分はこんなものではない。自分の持つはまだ可能性まだ出し切れてはいない。いわば,遺伝子は開花しきっていない。そう自分をけしかけることとは矛盾しない。

それは「ユメ」を基準にするとよくわかる。

こころの中にいつも「ユメ」を描き続けている。おのれの才能の限界に,とことん見きわめさせられた。でも,まだどこかに信じている。

人生の道のりと「ユメ」との距離は釣り合いが取れているのかどうかはわからない。確かに近似のユメなら叶えたかもしれない。しかし,その都度,「ユメ」はますます高みに遠ざかる。

例えば,起業する,会社を興す,独立する,何々になる,ということなら,カタチを創ることは簡単だし,それでユメのとば口にはたどり着ける。しかしおのれ一個の才を頼むモノは,あるいは,おのれ一個の才能で,世に立とうとするものは,そこに才の限界というか,超えられない淵を見せつけられる。あるいはおのれの閾値といってもいい,限界といってもいい。

それを見せつけられると,限りなく落ち込む。比べている,と言われるかもしれない。しかし絶対的な才能の格差はある。これだけはどう努力しても追い付かない。それがわかって初めて,おのれらしさというか,おのれの個性とは何か,おのれのオリジナリティとは何かを,考えさせられる。それを考えなくては,その屹立する才能と伍して生きてはいけないからだ。

逃げ出したくなるのをかろうじて踏みとどまって,そこでおのれと戦う。

その場に佇立するために,必死でおのれのいいところを数え上げる。強みとは決して言わない。なぜなら強みというには,客観的立ち位置に立たねば見えない。そんな位置に立てる余裕はない。

かろうじて藁しべのようにおのれのいいところを数え上げ,それにすがりついて,立ち直り,また歩き出す。

小さな山なら,一杯制覇した。しかし幾つそれを制覇しても,屹立する「ユメ」の頂は,ますます遠くなる。それが踏破できない限り,見劣りのする小山は,ますます低く見え,かの頂はますます高く聳えていく。

小さな山のことは,旗について触れたところで,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11156432.html

具体的に挙げた。しかし,所詮,小山に過ぎない。周囲の山をいくつ踏破し,頂を極めても,それは周囲に過ぎない。

人は死ぬまで可能性の中にある

とハイデガーが言っていたと思うが,その「可能性」はあくまで,そうなるかもしれないということにすぎない。しかしその伸びしろを信ずるよりほかにはない。

良くも悪くも非才なのに,よくここまで来たと思わないでもない。しかし小山は小山。「ユメ」は「ユメ」。「ユメ」の頂から見れば,地を這うような生き方に過ぎない。その意味で,小山の一つや二つでは,残念ながら,頂へのステップにもなっていない。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




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#夢
#のびしろ

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