2013年07月21日

夢と現


久しぶりに芝居を観た。

http://acfactory.com/

芝居の始まる前,少し薄暗い舞台は,もう眼の前にある。で,劇場内にかかっていたクラシックを舞台装置の蓄音機を止める形で,緞帳があくのと同じ,これから芝居が始まります,という合図になる。

その仕掛けはともかく,いったいどこからどこまでが,舞台で,どこからが観客席なのか。一応,舞台は少し高くなっていて,境界が設えられているらしい。まあ,そのつもりで観客も,開幕(幕はないが)を待っている。

自分の知っている範囲では,客席から,人が何か言いながら,立ち上がり,舞台へ上がっていった。役者が,客席にいたわけだ。それが演出であった。その意味では,演じる側が境界線を設定しているのだろうか。

仮に,舞台でどんちゃん騒ぎになったとき(もちろん演出として),観客がいきなり立ち上がり,演出家の想定しないところで,舞台へ上がり,そのどんちゃん騒ぎに加わったらどうなるのか。

演出家は舞台の空間として,どれだけの境界を設定してもいいのだろう。客席まで含めるか,劇場まで含めるか,あるいは劇場以外の現実を含めるか。確か蜷川幸雄の,タイトルを忘れたが,清水邦夫の旧作(確か『真情あふるる軽薄さ』だったような)を小劇場で再演した時,舞台の奥が突き抜けて,劇場の外とつながり,外の風が客席にまで吹き込んできたのを観たことがある。それは演出家の構想のなかだ。

しかし,そこに客が(演出家の意志を超えて)客の意志で加わってきたら,舞台は,意や演出家のつくりあげた劇的空間は崩れるのだろうか。

僕は劇についても,ドラマツルギーについても,まあ素人なので,思いつくままに考えるが,劇という空間は,演出家(あるいは脚本家)が設定するのだろうか。それを観客は,線引きされた境界の外から,映画を観るように観ているだけなのだろうか。

映画は,まあ3Dはあるにしろ,一応二次元の中で存在する。しかし芝居は,舞台という限定された世界にしろ,四次元の中で演じられる。

しかし観客から見たら,それを観て,物語の世界に没入したら,観ているということでは変わりなく,ただ生か生でないかの違いだけなのだろうか。

たとえば,映画では起こりにくいことが芝居だと起きる。

虚実皮膜というのは,虚構とリアリティとのはざまだが,芝居の場合,ライブな分,現実が入り込む。

たとえば,こんなことが起きた。

1人の役者がセリフを間違えて,間違えたことを出演者の一人が突っ込み,それに観客が反応し,観客に爆笑が起き,間違えた役者がリアクションをする。さらに,それに連鎖して,また一人間違えると,本人が,前に間違えた役者に突っ込みを入れ,それが観客に受ける…といったように,セリフの間違い自体をギャグにするところで,微妙な破れ目が出る。

あるいは,子どもが目の前で,妙に受けて笑い転げている。それを見て,一方で舞台に目を転ずる。そのハイパーな時間の飛躍も虚構と現実の破れ目になるが,それ以上に,その子供に受けたことで,演じているものが影響を受けて,微妙にリアクションが大きくなる。そこにも現実と虚構との破れが生じる。

舞台の上で演じている役者のリアルの時間と舞台の劇の中の虚構の時間とが,微妙に交錯し,虚構のはずが,リアルの時間が破れ出る。

セリフの言い間違いも,最近はそれをギャグにしてしまうので,一層虚実の隙間が,また虚構になったり,リアルになったりする。あるいはその交錯自体が虚構の流れに取り入れられる。

例えば,セリフの言い間違いを,なかったことにするのと比較すれば,わかりやすい。そのときは,言い間違いは虚構の許容範囲の中で,なかったこととして,劇の流れにのみこまれる。しかし,それをギャグにした瞬間,それが本来の流れを止めて,その失敗を際立たせ,その失敗をめぐるやりとり自体を,また虚構に取り込む。芝居の流れの中に取り込む。そこで虚実の隙間に乱れだかねじれが起きる。

しかしその程度なら,アドリブということで,作家や演出家が描いた世界自体が崩れることはない。まあ,演出家の許容範囲内,想定内ということになる。

たとえば,声掛けや拍手は,許容範囲だとして,どこからが,劇の虚構を崩す境界線になるのか。立ちあがって,大声で何か言ったらどうか。それは声掛けとして,無視していくのか。それともそれに反応して,ギャグにするかどうかは別に,リアクションを取った瞬間,虚実の境界線が崩れ,別の虚構の世界がそこにできる。観客側から,舞台の境界線を広げた,というか,舞台の縁を引っ張ったという感じになる。

もう少し踏み込んで,観客側から,演出家や作家の描く予定調和の世界とは関係なく,アクシデントのように観客がその劇的世界に闖入したらどうなるのか。その瞬間から,劇的空間は,描こうとされてきた結末自体をも変えてしまうかもしれない。

映画と芝居に決定的な違いがあるとすると,観客が,劇的空間の境界線を引き伸ばしたり,その境界自体を変えてしまったりする可能性が潜んでいることなのではないか。

それをしたお客がいるかどうか知らないが,本来そういう緊張が,あの劇場という場にはある。

もっとも一度しかそれは許されまい。下手をすると営業妨害(あるいは威力業務妨害?)を問われかねないが。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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posted by Toshi at 05:38| Comment(1) | 演出 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
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Posted by ferragamo カタログ at 2013年08月08日 02:28
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