例えば,好きという思いを,伝えても,相手が自分の想いの土俵に乗らなければ,
片思いであり,
無理強いをすれば,ストーカーになる。しかし考えてみれば,何もこれは特殊なことではない。
普通の人と人とが知り合い,わかりあう,
というのとどこも変わりはない。
自分の想いを共有しあうというのは,そう簡単ではない。しあっているつもり,と言うだけのことかもしれない。
安易にわかりあう,
つながり合う
という言葉が嫌いなのは,そのあたりの微妙な齟齬やすれ違いに敏感なだけだ。思い込んで,その気になるのに耐えられないだけだ。
下手をすれば,単なる思い込み,と言うか幻想に過ぎないかもしれない。それでも,つながっているという感じが好きなら,それはそれで,僕の関知しないところだ。しかし,それがストーカーと同じくらい主観的で,主情的なことだと僕は思っている。
だから,「心のケアお断り」と張り紙をされてしまう。
同じ土俵にいないのに,あるいは同じ土俵に乗りたくもないのに,
同じ土俵にいるという前提で,話を進められても困る。
同じ土俵にいたじゃないか,と迫られても困惑する。
何と言うのだろう,そういう思い込みは,それぞれ,心には同じ土俵の上で会話している二人の関係を思い描いているが,それぞれの描いているものが同じという保証はない。まったく別の土俵に乗っているのに,二人は,それぞれ同じ土俵の上に乗っている自分たちを思い描いているだけかもしれない。
同じ赤色を見ていても,見ているのが同じ赤とは限らない。
人はミラーニューロンで,相手を見倣う。しかし見倣っているものが相手と同じとは限らない。なまじいに,相手の振る舞いから相手の心が読めるだけに,それが自分の思い描くものと,同じと思い込みやすい。
しかしそれはあくまで幻想だから,わずかな行き違いで,心理的破綻はくる。
でもだ,皮肉ではなく,お互いが同じものを見ているとお互いが信じられている限りは,その違いは,それぞれの中で微細なものとして無視できるほど,関係が心地いいのかもしれない。なまじ齟齬が見えない分だけ,心地よいと思えるのかもしれない。それを信頼というのだろう。しかし,それが儚い幻想の上に立っている,と最近思えてならない。
別にシニカルに言っているのではない。信頼関係というのはその程度だということだ。人は,所詮一人ぽっちだ。何人に囲まれて死のうと,死ぬのは一人だ。それが野垂れ死にだろうと,祝福された天寿であろうと,同じだと最近思っているせいもある。それを寂しい人だと称する人がいる。いやいや,死が迫った時,どんなに親身に世話をし,親身に相談に乗ってくれたところで,その不安を分かち合うことはできない。わかることもできない。
その上でなくては,両者の土俵なんて創れっこないのだ。
初めっから,信頼だの,絆だの,つながりだのと言う,浮ついた言葉ありきでスタートする関係を,最近,ますます信じなくなった。まあ,もともとと言えば,原点回帰に過ぎないかもしれないが。
むしろ,その両者の越えられない溝というか,淵というか,そこからスタートし,幻想でもいい,ハイパーな土俵を創ることからしか,スタートしない。その厳しい,隔絶をわからなければ,安易にひとがわかるなどと言ってはいけない。
今日のアイデア;
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