2013年07月25日

「死」から見る



マジに,死から考えるのが,自分にとって,もはや当たり前になった。もうあと何年かが,気になる。そういう人間にとって,「未完了」などという言葉は,ちまちまして見える。その言葉に器量もスケールも感じられない。

死から考えると,どんなことも尺度が違う。

死はそれほどにも出発である
死は全ての主題のはじまりであり
生は私には逆向きにしかはじまらない
死を<背後>にするとき
生ははじめて私にはじまる
死を背後にすることによって
私は永遠に生きる
私が生をさかのぼることによって
死ははじめて
生き生きと死になるのだ(石原吉郎「死」)

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11029408.html

でも触れたが,もうひとつ,

重大なものが終わるとき
さらに重大なものが
はじまることに
私はほとんどうかつであった
生の終わりがそのままに
死のはじまりであることに
死もまた持続する
過程であることに
死もまた
未来をもつことに(石原吉郎「はじまる」)

僕は心底,コーチングで言う「未完了」という言葉が嫌いである。「未完了」と言った瞬間,評価が入っていることに敏感でなくてはならない,と思う。「完了」が是で,だから「未完了」は,非となる,と。

そうだろうか?

未完了ということは,「継続中」ということだ。人生もまた継続中だと考えれば,いまの時点で完了していないだけだ。「仕掛かり」状態で生きていくのが人生ではないのか。その仕掛かりは,いまを基準にした短期間でクリアするのではなく,一生をかけて片づけていく,そういうものではないか。

いや,そもそも人生で片付くなんてことがあるのか。すべては完成しないまま,継続する。完成といった瞬間,そこで行き止まりになる。人生に完成なんてない。すべてを同時進行で,平行に仕掛かりにしていく,そのあいまいさに耐えられない人間が,まあはっきりいって「仕掛かり耐性」のない人間が,考えた概念に思えてならない。単純に完成=是,と。余りにスケールが小さい。余りにも人生を見るパースペクティブが狭い。人間の器量を疑う。

いつやるの?

いまでしょ。

と言われそうだが,これは受験生に向かって言っている。しかしこれだって,いまやろうが,三年後やろうがどうでもいいのではないか。十年後再受験したっていい。それは受験生という概念を狭くとっている予備校教師らしい発想でしかない。彼にとっては,それが「いま」であって,そうでないひとには「いま」ではない。

未完了ということを言う人間の小賢しさが嫌いである。

多く,未完了の例示に挙げられていることが,実にくだらない。それを考えた人間の器量が知れる。お里が知れる。人生のスケールが小さい。人を見るスケールが小さい。

蟹はおのれに似せて穴を掘る。

自分のことを言っているのだ。「未完了」を気にしている小心で,スケールの小さいおのれという自分に合わせて他人を計っている。

完了って何?

人生における完了って何?

完了と完結とは違うのか?

完了とは,文法でいう完了形の意味では,完結また完結した結果の存続状態,とある。完結で変わらなければ,それでドン詰まり。完結は自己完結というようにそれ自体で閉じている。

人生に完了などということがあるはずはない。いつまでも,死んでもなお未完了は続く。

そもそも,僕は,その人にとって本当に必要なことは,必ずやる,と信じている。

必ずやらねばならないことは,必ずやる。やらないのは,その人にとって「いま」ではないからだ。いま必要ではないからだ。やめられないのは,本当はやめる必要を感じていないからだ。死ぬまで「いま」が来ないかもしれない。しかし,それがどうだというのだ。

その時間を無理やりつづめることは,無駄だ。むしろその人の人生のテンポを変えることだ。急ぎたい時は,人は急ぎ足になる。人様がとやかく言うことではない。

そう信じない人が「未完了」を口にする。あるいは,「未完了」という言葉を学んだ人がその言葉でおのれを振り返る。ひとは,もっている言葉で見える世界が違う。「未完了」などという小賢しい言葉でおのれの大きな人生を計ってはならない。それを考えた人物と同程度の器量になってしまう。

「未完了」というラベル(仮説?)に合わせて自分の人生を点検するほどあほ臭いことはない。

そもそも未完了という評価は,スパンを狭く考えすぎだ。そういっている人の器量を小さく見せるだけだ。

手塚治虫は,頭の中に3つくらいの次回作の構想があった,という。
ギロチン台に向かう貴族は,処刑台のところで,読みかけのほんのページを折った。
カフカの『城』も,埴谷雄高の『死霊』も,プルーストの『失われた時を求めて』も,ムージルの『特性のない男』も,中里介山の『大菩薩峠』も,夏目漱石の『明暗』も,ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』も未完…

それをしも,未完了というのか。

人生に完了などはない。すべては,継続中なのだ。人は,その継続しているままに死を迎える。そういうものだ。

これは生き方の問題ではなく,死に方の問題だ。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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posted by Toshi at 05:20| Comment(2) | 生き方 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ミネトンカ
Posted by nike harajuku at 2013年09月14日 16:52
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Posted by adidas オリジナル at 2013年09月14日 16:52
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