飯倉章『黄禍論と日本人』を読む。
黄禍論は,いわば白禍の裏返しといっていい。19世紀から20世紀初頭までの帝国主義的進出や植民地支配を正当化したのが,人種主義である。
自らを優秀であると信じた白人は,有色人種を支配することは理にかなっていると考えたのである。
しかしその論拠への不安が黄禍に違いない。著者はこう書く。
抑圧された有色人種が連合して白人支配に抵抗し,世界規模の人種間戦争が起きるのではないかと危惧する人々が白人のなかに現れる。そのような危惧のなかでも,とくに東アジアの黄色人種,日本人と中国人が連合して攻めてくる,といった脅威は「黄禍」と名づけられた。
本書は,それを欧米の新聞・雑誌の風刺画を通して,探っていこうとしているところが,ユニーク。ここでは,それを具体的に紹介できないが。
日本が,世界政治の舞台に登場するのは,日清戦争後の三国干渉の時期,三国干渉の当事者,ドイツ皇帝(カイザー)ヴィルヘルム二世が,黄色人種の勃興を脅威と説き,一幅の寓意画「ヨーロッパの諸国民よ,汝らの最も神聖な宝を守れ!」を創らせた。後に「黄禍の図」とも呼ばれ,黄禍思想が流布するきっかけとなったものである。
もっとも他の国々では,それに同調したという様子はなく,そこには,
黄禍を利用してヨーロッパの国際関係を,ドイツに有利な形で進めたい,というカイザーとドイツの意図が透けて見える。
その意味で,国際関係の中で,日本や日本人が,
時に極端に歪曲されて醜く描かれる…
一方で,日本を支持したり,頼りにした国々では,
「黄禍」をパロディ化して嘲笑ったり,批判している風刺画もたくさん描かれている…
つまりは,ドイツのように,自国の主張にとって使い勝手のいい批判ネタとして使われたといっていい。
たとえば,日本人学童に対する差別的措置から始まった,日系移民をめぐる日米対立は,排日移民法の成立をもってひとつの決着を見るが,人種主義による日米憎悪の増幅は,太平洋戦争の遠因の一つと言われるほどのものだが,著者いわく,
太平洋戦争は,白人のくびきから東南アジアが逃れるきっかけを作ったといえる。一方で,人種によって日米がお互いに対する憎悪を増幅したはての戦争であったといえる。
と。
面白いのは,第一次大戦後,設立される国際連盟の規約に,
人種平等条項
を入れるように,日本が提起した問題だ。
日本は会議で独自に提案をし,人種差別撤廃を「信教の自由」条項に盛り込もうとしたが,議長を務めていたイギリスやフランスの委員から反対を受けた。条項そのものも採択されなかった。その後も日本側は,人種平等という表現を国民平等という表現へトーンダウンして何とか連盟規約に盛り込もうとした。
結局採択されなかった。その時代の国際関係の主潮がよく見える。皮肉なことに,それは,第二次大戦後,敵側の国々よって規範化された。
国際連合設立時,主要連合国(米英ソ中)の間では,国連憲章に,人種平等を明示しないというコンセンサスがあったらしい。
それが覆るのは,国際連合を設立に導いた1945年4月から6月のサンフランシスコ会議において,フィリピン,ブラジル,ドミニカ,メキシコ,カナダといった中小の連合国が,人種平等条項の挿入を要求して交渉し,劇的ともいえる成果を上げたためである。
つまり,国連憲章第一条に,
人種,性,言語又は宗教による差別なく
と明示されることになった。
最後に著者は,こう締めくくる。
日本は,アジアにおける非白人の国家として最初に近代化を成し遂げ,それゆえに脅威とみなされ,黄禍というレッテルを貼られもした。それでも明治日本は,西洋列強と協調する道を選び,黄禍論を引き起こさないよう慎重に行動し,それに反論もした。また,時には近代化に伴う平等を積極的に主張し,白人列強による人種の壁を打ち破ろうとした。人種平等はその後,日本によってではなく,日本の敵側の国々によって規範化された。歴史はこのような皮肉な結果をしばしば生む。そう考えると,歴史そのものが一幅の長大な風刺画のように思えないでもない。
参考文献;
飯倉章『黄禍論と日本人』(中公新書)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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