仮説
仮説と言えば聞こえはいいが,予想,予測,期待,先入観,言ってしまえば,まあ,妄想に近い。どんな立派な仮説でも,検証されるまでは妄想。他は推して知るべし…。
アインシュタインの仮説も,一時光より早いものがあると大騒ぎになった。まあ,観察誤差ということで落ち着いたと記憶しているが,ことほど左様に,アインシュタインの相対性理論すら,まだ仮説だと聞くと,まあ確かなものは,それほどこの世にはないと,安心する。
脳科学者に,「仮説脳」だか「予測脳」だか「予想脳」ということを言っておられた方がいらっしゃったが,あけすけに言えば,「先入観」とも言える。われわれは日常的に仮説あるいは予測しては検証する,を繰り返している。
多く,
こうかもしれない,
こうなったらいい,
こうなってほしい,
という願望だか期待をもって生きる。それは,仮説ではない。といって,
こうすれば,こうなる,
こうなっているのだから,こういうことだ,
というのは,筋というか,蓋然的な流れというか,あくまで事実(の動き)の予測に過ぎない。
仮説は,固く言えば,
仮の説明概念,
ぶっちゃけ,
仮にそう言っておこう,そう考えておこう,そう見ておこう,
ということだ。そういう眼鏡で見ると,そう見える,というだけのことだ。
これを,
事実
としてしまうと,本当の妄想,もう病気になる。
しかし,ストーカーもそうだが,ある意味,期待と仮説は,混同されやすい。そうした方が安らかになれるからだ。
期待というのは,「そうなってほしい」という自分のイメージを現実にかぶせる(と凹凸は見えにくくなる)。
仮説というのは,「そう考える」といまとは別の未来がストップモーションのように映し出される(気がする)。
微妙だが,事実が裏切るかどうかで,どちらも,検証されるというか,結果を突きつけられる。
期待は,自分のトンネルビジョンだから,かぶせ直しは効かない。しかし仮説は,「そう」を別に置き換えればいい。
思うに,どうせ仮説をたてるなら,妄想なのだから,とがっているほうがいい。尖っている方が,現実との葛藤が大きく,読み直し自体が面白くなる。尖っていないと,現実の重みに圧倒されて,すり減り,丸まって,当たり前の読解になっていく。
いまどき少子化などというのは仮説でも何でもない。
しかし何十年後日本人が絶滅する,と言えば,とまあ少しは尖っている。どうせ現実の鑢ですり減らされる尖りなら,もっと尖った方がいい。たとえば,少子化が徹底すれば,
労働力を大々的に受け入れるほかない。そうなれば,いまの看護師受け入れのように,日本語条件なんぞ言っていられない。なんせ,介護を必要とする老人があふれかえるのだから。となると,英語,中国語,朝鮮語,ベトナム語等々が飛び交うだろう。
それって,徹底すると,どうなるのだろう。
ときに,妄想は,悲観的に見えるかもしれない。しかし,悲観の裏には楽観が張り付いている。
それば,ひょっとすると昔大陸から大挙渡来人が来たのに匹敵する巨大な変革のエネルギーになるかもしれない。
まあ,自分はこの世にはいないが…。
参考文献;
仮説づくり;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0926.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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ラルフローレンホーム
ラルフ
こんにちは
読ませて頂きありがとうございます。
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タイトリスト mb 712