捨てる



捨てるについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11033741.html

で触れたことがある。なんとなく,捨てることに,意味を持たせたがっている風潮が好きにならない。

僕が社会人になったころ,ワンウェイということで,使い捨てがキャッチフレーズであった。捨てるはプラスの意味が与えられていた。確かヤクルトが,ボトルの一体成型から充填までの一貫生産プロセスを完成したとかで,見学に行ったことがある。古い話だ。

いまは,エコであり,もったいないがキーワードだ。

しかし捨てるが流行っている。断捨離の教祖が,

断捨離というと新しい片づけ術かと思うかもしれませんが、そうではありません。断捨離とは、モノへの執着を捨てることが最大のコンセプトです。モノへの執着を捨てて、身の周りをキレイにするだけでなく、心もストレスから解放されてスッキリする。これが断捨離の目的です。 必要もないもの、使わないものを手放すことで、本当に必要なもの、本当に価値のあるものがさらに浮かび上がってきます。

と,のたまっている。

僕のようなへそ曲がりは,心が整理できないことと,ものが整理できないことは無関係で,ものを整理したことで,何かが片付いたように錯覚するだけだと思う。心が片付いていないから,片付いていないものが気になっているのだ。ストレスがあるから,執着するものが気になる。見ようによっては,逆立ちしている。たぶん,教祖はおのれを語っている。蟹はおのれに似せて穴を掘る,とか。

ものを捨てても片付いていない心を片づけるためには,現実に立ち向かうほかはない。ストレスも同じだ。江戸の仇を長崎で討つことはできない。

まあ,何を言っても,蟷螂の斧ということだろう。つまらぬことに寄り道しすぎた。本題に入ろう。

全く違うところから捨てるについて考えてみたい。

それにしても,何を捨てるのだろう。

ヒトか,

モノか,

カネか,

チエか,

情か,

意か,

コンテンツか,

コンテクストか,

思いか,

執着か,

捨てることで手に入れられるのは,何だろう。自由,自然体ということなのか。

違う気がする。捨てることで,得られるのは,その決断した自分の潔さだけなのではないか。それで何かが変わるのではなく,その潔さで,リアルのいまを生きられるかどうかだ。それは捨てたことで得られるのではない。その後の話だ。

僕は,これまで一杯の,ヒトとモノを捨てた(いやヒトは,捨てられたのか?)。本は,建て替えにあたって,大々的に捨てた。でも,不思議に本は,捨てると,その本を探すということが出来する。だから捨てられない。執着しているのは知識であり,知恵だ。本ではない。

いままで書き溜めた三十年分の日記もメモも習作もすべて捨てた。捨てたのは,過去であって,いまの自分の執着やこだわりやストレスではない。捨てたことで,いまの自分の執着は断ち切れない。いまの自分は,いま生きているなかで執着しているのだから。

日記ももう何年も前に書くのをやめた。一日を振り返ることは,過去にこだわることだ。いまにこだわれば,日記はいらない。

いまを生きるとは,過去とは関係ない。過去がいまを拘束すると思っているのは,そういう言い訳を言えば楽だからにすぎない。そんなことでいまが突破できるはずはない。

多分捨てることで一番大事なのは,ヒトではないか。

ヒトとの関係ではないか。ヒトを捨てるということは,その関係を捨てることだ。その関係を捨てるということは,そういう自分のありようを捨てるということだ。

組織を捨てるということは,組織の中で生きる生き方を捨てるということだ。それは,別の生き方を選択することになる。

もしモノを捨てることに意味があるとすると,そういう自分の生き方に関わるものを捨てるということだ。

例えば,包丁を捨てるとは,板前というあり方を捨てるということだ。

ペンを捨てるということは,物書きというあり方を捨てるということだ。

断捨離とは全く逆なのだ。

必要でないものを捨てるのではない,

必要不可欠なものを捨てることだ。

それは人生のひとつの選択肢を閉ざすということだ。それが本当の捨てるということの重みだ。そのとき,リアルな心の決断が先にある。その結果として,捨てるが来る。

もちろん迷っている時,捨てることで背中を押すことはある。しかしそれは,リアルの決断そのものが先にあることに変わりはない。

断捨離が逆立ちしているとはそういう意味だ。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





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