本当の自分という言い方が嫌いである。いま,ここに居る自分以外に自分はいない。可能性のことを言っているなら,そういえばいい。隠れている自分というのは,隠れているのではなく,まだ,ここに居ないのであって,本当の自分という言い方は妥当ではない。
で,だ。自分はよく凹む。凹むのは,
人と比較して,自分のだめさに気づかされたとき,
何かしくじりをやって,落ち込んだとき,
自分の期待した水準のことができず,自分で自分を貶めているとき,
ひとから自分の振る舞いについて批判されたとき,
自分が妬んだり羨んだりしているのに気づいたとき,
自分の頭の中の特定の誰かの眼で,自分を批判するとき,
自分で自分に期待外れを起こしたとき,
何となく憂鬱でブルーな気分に落ち込んだとき,
等々,いろいろあるが,要は,自己イメージが崩れてしまった,あるいは(ダメな,あるいはあからさまな)自分を突きつけられた,というときだ。というか,何となくこういう自分だと思っている自己概念というか,セルフイメージが,何かのきっかけで罅がいるというか,輪郭がくずれるというか,もっとひどい時は,木端微塵に砕けるというか,そんなときだ。
そんなとき,
自分には人には見えない本当の自分がいる,
とか,
もっと違う自分があるとか,
という言い方をするとすれば,自己逃避そのものといっていい。
いま,ここで,そのきっかけになったことが些細なことか重要なことかはともかく,何かに躓いて,凹んでいる自分,その自分がそのまま,本当の自分に他ならない。
この自分よりほかにもっと優れた自分がいるはず,
と思いたいのは自由だが,そっちへ行けば,ほぼ妄想か仮想か空想か,まあ,病気に近づく。
まっとうな人は,そこから,改めて,自分を立ち直らせるしかない。
昔自殺を考えたことがあったが,最期の最後で,自分というものを,ぎりぎり信じている自分がいた。その時どう考えたかは,正確には覚えていないが,
まだ自分にはしなくてはならないこと,
まだ自分にはしたいこと,
あるいは,
まだ自分にはし残したこと,
がある,というような,自分のか細い可能性を信じた,というか,それを藁しべにして,それにすがって,かろうじて,凹んだ自分を支えた,という記憶がある。
だから,心底絶望したのではないかもしれない。そんな奴には,わからん,と言われそうだ。しかし,僕は,信じている。どんなに絶望の淵にしても,
自分がすること,
自分でなくてはできないこと,
自分がしなくてはならないこと,
を思い出せば,かすかな可能性が見える。それが,
したいことか,
しなければならないことか,
は,このぎりぎりのときにはどうでもいいのだ。この世の中に,僕がいることが,少なくとも,必要だ,と感じられればいいのかもしれない。
フランクルが,『夜と霧』で書いていたことは,僕流に言い換えると,これだったような気がする。
フランクルは,ニーチェの,
なぜ生きるかを知っているものは,どのように生きることにも耐える
を引き,生きることから期待するのではなく,生きることが私たちに期待していることにどう応えるか,だと言ったのは,そういう意味だと捉えている。
だから,唐突だが,リーダーシップと言われているものも,その人が,
何をするためにそこにいるのか,
を実践する手段である。
自分の思いを(共に)実現するために,
自分の目的を(共に)実現するために,
そうすることで,たぶん,
自分が自分になる,
それが人生の目的なのだ,と思っている。
ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧 新版』(みすず書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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