2013年09月06日
怒り
怒りについては,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11145382.html
で触れたことがあるが,ちょっと基本的なことを確認してみたい。
ならぬ堪忍するが堪忍,
というが,怒ったあとの気分の悪さと言ったらない。堪忍袋や癇癪玉の大きさが,器量,度量の大きさに比例するというような気がしてならない。
怒りは狂気,
というのもよくわかる。
怒りは,基本的に欲求充足が阻止されたときにその阻害要因に対して生じる,と心理学辞典ではいう。生理的には,怒りの状態では交感神経が活性化し,血圧の上昇,心拍数の増加が生じ,表情は文化を超えて似ており,眉が引き寄せられて下がり,口が私価格開いた攻撃的状態になる,という。
怒りという言葉には,
怒り,
腹立ち,
憤り,
むかつき,
瞋恚,
とあるが,むしろ漢字の方が,厳密に分ける(以下『字源』による)。
怒(喜の反対,腹立ち)
忿(立腹して恨む。外へ現れない)
憤(内に鬱積して発する怒)
悶(心に煩鬱してもやもやする)
懣(悶に同じもだえる。)
恚(恨み怒る。怒りが尾を引く)
瞋(怒気が目元に現れる。目をいからす)
愾(恨み怒る。)
艴(怒る顔色)
怒りの種類は,言ってみればたくさんあるのだから,怒りとは,
欲求充足が阻止されたときにその阻害要因に対して生じる,
というのは,いささか単純な気がする。人の心に,勝手に設けた,
(相手や他の者がこうするべきという)基準やルール,
(人は,相手はこうしてくれるはずという)期待や願望,
(こうなるはずという)希望や期待,
(こうなってくれるといいという)夢や望み
(かくあるべしという)信念や価値
という,一言で言えば,期待値への思い入れが強ければ強いほど,それが叶わない,阻まれる,意に沿わない,ということで,普通なら意志喪失したり,落胆したり,めげたりするのが,相手への怒りや恨みに変わる。その閾値は,人によって違うが,引き返せないくらい,(独りよがりの)思いの重みが偏っているということに因るように思う。
そうすると,自責ではなく,こんなに期待しているのにとか,こんなにこっちは守っているのにとか,こんなに思っているのにと,(思いを受け止めない相手への責め)他責へと転じ,攻撃としての怒りが爆発する。あるいは逆か,怒りが,自責を押しつぶし,他責へと転ずる。
いずれにしても,それは内的な心理的バランスが崩れた,ということができる。要は,論理療法に言われるまでもなく,相手が怒らせているのではなく,自分が怒っている,それがイラショナル・ビリーフによるかどうかは別に,自分の思いにあることは間違いない。
しかし,前にも挙げたが,ジル・ボルト・テイラーは,こう言っている。
わたしは,反応能力を,「感覚系を通って入ってくるあらゆる刺激に対してどう反応するかを選ぶ能力」と定義します。自発的に引き起こされる(感情を司る)大脳辺縁系のプログラムが存在しますが,このプログラムの一つが誘発されて,化学物質が体内に満ちわたり,そして血液からその痕跡が消えるまで,すべてが90秒以内に終わります。
生理的な反応の怒りは90秒まで,それ以降は,それはそれが機能するよう自分が選択し続けている。つまり,思いの(というよりもう妄想の)偏りで,視野が狭窄しており,怒りつづけなければ,思いの秤のバランスが取れなくなっている。
この怒りは,すべてがおのれの幻想的な現実の上で組み立てられていて,事実を突きつけられても,それは事実とは見えない。ほぼ,狂気に入り込んでいるのに近いかもしれない
ただ,どうも,こうやって私的な怒りだけに怒りを限定するのは,不公平な気がする。たとえば,
慷慨,
義憤,
公憤,
という怒りがある。
義を見てせざるは勇無きなり,
という言葉もある。その時,阻害されているのは,社会的公平であり,社会的正義であり,人間としての道であり,人としてのあるべき姿ということになる。
昨今,その怒りの表現が,われわれは下手になった。ツイッターのつぶやきは,単なる私的怒りの表現でしかない。そこには,公的な基準を確かめていく,再確認するという理よりは,私憤の吹き溜まりの感がある。野次馬の正義感みたいなものだ。その広がりの大きさは認めるが,ひとりひとりが自分の体と存在で関わるデモ以上の戦闘力にする工夫が,僕には見えない。
参考文献;
ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳』(新潮文庫)
簡野 道明『字源』(角川書店)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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