日本語は論理的でないという人がいる。
それは,おのれの論理力を言語のせいにしているか,よほどの西欧語信奉者かのいずれかだ。言語は,おのれの思考の表現手段だ。その手段を使いこなせないのを,日本語のせいにする人は,まず,その人が西欧語で論理的に表現できるかどうかを確かめたほうがいい。
さて,日本語の特徴について,ザックリとは,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0924.htm
で触れたことがあるが,僕は日本語には日本語の筋が通っていると思う。そのことは,西欧語から見ると見えない。その人は,基準をいつも,西欧を尺度にするから,ものが見えないのだ。そういうのを奴隷根性という。あるいは,文化的植民地根性と言ってもいい。そういう手合いに限って,横文字を縦文字にして,おのれのオリジナルな如く語る。最低だ。
戦前,戦後何度も,漢字廃止論とか,日本語をローマ字にしようとか,フランス語にしようといったたわけたことを言った連中がいたが,どういっていいかわからない。絶句するしかない。それもどこかに,日本語蔑視がある。
この辺りは,
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%AD%97%E5%BB%83%E6%AD%A2%E8%AB%96
の漢字廃止論にある程度概観できる。
そこで,日本語だ。
たとえば,主語がないと言うが,それは日本語が文脈依存が強いので,不要だから表現しないのであって,日本語そのものの問題というより,使い方の問題に過ぎない。
基本,日本語は風呂敷構造になっている(正確には,日本語の表現構造を「風呂敷型統一形式」と呼んでいる)。そのことを了解してしまうと,入れ子構造の流れに,日本語の論理と時制が見えてくる。
花が咲か ない
花が咲い た
における,「た」や「ない」は,「表現される事柄に対する話手の立場の表現」(時枝誠記『日本文法口語篇』),つまり話者の立場からの表現であることを示す「辞」とし,「花が咲く」の部分を,「表現される事物,事柄の客体的概念的表現」(時枝,前掲書)である「詞」とした。つまり,
(詞)は,話し手が対象を概念としてとらえて表現した語です。「山」「川」「犬」「走る」などがそれであり,また主観的な感情や意志などであっても,それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。これに対して,(辞)は,話し手のもっている主観的な感情や意志そのものを,客体として扱うことなく直接に表現した語です。
と三浦の指摘する通りだ。その入れ子の複雑な表現構造は,
われわれは,生活の必要から,直接与えられている対象を問題にするだけでなく,想像によって,直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり,過去の世界や未来の世界について考えたりしています。直接与えられている対象に対するわれわれの位置や置かれている立場と同じような状態が,やはりそれらの想像の世界にあっても存在するわけです。観念的に二重化し,あるいは二重化した世界がさらに二重化するといった入子型の世界の中を,われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり,現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしているのです。昨日私が「雨がふる」という予測を立てたのに,今朝はふらなかったとすれば,現在の私は
雨がふら なくあっ(予想の否定) た(過去)
というかたちで,予想が否定されたという過去の事実を回想します。言語に表現すれば簡単な,いくつかの語のつながりのうしろに,実は……三重の世界(昨日予想した雨のふっている「とき」と今朝のそれを否定する天候を確認した「とき」とそれを語っている「いま」=引用者)と,その世界の中へ観念的に行ったり帰ったりする分裂した自分の主体的な動きとがかくれています。
と表現した通りなのである。入れ子構造は,さらなる入れ子構造にすることで,時制を複雑に表現することができる。そして,かならず,最後は,話者の語っている「いま」へと戻ってくる。そこには,情緒的で,あいまいな言語表現はみじんもない。それを,我々はいともたやすく使いこなしている。
たとえば,
花が咲いて いた なあ
と「なあ」を「いま」とすると,
「花が咲いてい」る状態は過去のことであり(「いま」は咲いていない),それが「てい」(る)のは「た」(過去であった)で示され,語っている「とき」とは別の「とき」であることが表現されている。そして「なァ」で,語っている「いま」,そのことを懐かしむか惜しむか,ともかく感慨をもって思い出している,ということである。
この表現のプロセスは,
1.「桜の花が咲いてい」ない状態である「いま」にあって,
2.話者は,「桜の花の咲いてい」る「とき」を思い出し,「そのとき」にいるかのように現前化し,
3.「た」によって時間的隔たりを「いま」へと戻して,
4.「なァ」と,「いま」そのことを慨嘆している,
という構造になる。
ここで大事なことは,辞において,語られていることとの時間的隔たりが示されるが,語られている「とき」においては,「そのとき」ではなく,「いま」としてそれを見ていることを,「いま」語っているということである。だから,語っている「いま」からみると,語られている「いま」を入子としているということになる。
ここには,言語として明示されていないものの,主語も,時制も明確に表現されている。それを論理的でないと称する人は,おのれの西欧コンプレックスで日本語を見ているだけに見える。でなければ,そのコンプレックスの色眼鏡で,日本語の論理を見ようとしていないのだ,というしかない。
日本語の構造すらわからなくて,日本語を云々するのは,早計というより,軽率そのものである。
ここまで書いて気づいたが,これについては,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11084956.html
ですでに触れているのとかなり重複してしまった。失礼しました。
参考文献;
三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)
時枝誠記『日本文法 口語篇』(岩波全書)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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