2013年09月20日

共振れ


既に一度触れたことがあるが,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11041914.html

「恋」を,ちょっと別の角度,「共振れ」(あるいは「共振れ幻想」)という視点から考えてみたい。まあ,艶っぽいこととは無縁な無粋な人間ではあるが,だからこそ考えてみたい。与謝野晶子,の

柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君

てやつである。

恋と哀れは種ひとつ

ということわざがある。これは違うと直感する。

哀れは上から目線だ。なくはないが,逆かもしれない。下から目線,というと憧れ,あるいは慕うという方が,重なるような気がする。

あるいは,

崇める,

憧れる,

敬う,

という,憧憬や尊崇の目線が,相手と同じ目線になるきっかけのようなものがあるに違いない。まあ,言ってしまえば,勘違いするきっかけ,思い違いするきっかけ,といってもいい。それによって,同じ目線になったと思い込む,あくまで思い込みだが。

しかし考えようによっては,人との関係をいろんな切り口で考えるとき,「恋」を,親しみの極端に振れた時というふうに捉えることができる。人によって,その感情は違うので,共振れというふうに,感情がシンクロするとは限らない。これを共鳴(共鳴り)と言い換えても,同じだ自分が鳴っていても,相手が鳴っているとは限らない。

いやいや,そもそも共振れなどということは,生理的に,たとえば,あくびが伝染するようにあるかもしれないし,同じ映画を観ていて,同じように感情が共振れすることはある。しかし相互の感情や感覚が,共振れすることがあるのか,というと,どうも,幻想以外には難しい,という気がする。

少しひねくれているのかもしれない。

人は,自分の観ている現実が,その感覚が,人も同じだと思いがちだが,全く別だ。現象学的に言えば,人は,結局自分の幻想のなかに生きている。だが,人は自分の物語を生きる。

とすれば,その物語を共有するには,

よほどミラーニューロンが発達していて,鋭く察することができるか,(いやいやそれだって,ただ自分が察しているのは察しているつもりになっているだけの自分の幻想かもしれない),

心がシンクロしているという幻想を現実と思い込めるほどの思い込みの強さか,

相手の振る舞いとのシンクロさせる(つもりな)のが巧みであるのか,

相手と一緒の土俵の上にいるつもりになっているのか,

相手も自分にシンクロしていると思い込んで揺らがないトンネルビジョンに入り込んでいるのか,

いずれにしても,独りよがりでしかない。もし,相手が,両手で近づくのを突っ張っているのに,それが見えないか,それを見ないか,それは見間違いと思いこみ,あるいは相手が勘違いしていると思い込み,それを踏み越えて行けば,ストーカーになる。

しかし,そうした人との関係は,何も恋愛という関わり方だけとは限らない。

だから人との関係は難しい。

ただ,一つの結論を持っている。

「物語」は共有できる。しかし,その物語に感じた感情や,その物語に仮託した思い,その物語にイメージした世界は共有できない。

だから,物語がたぶん,共振れのキーなのかもしれない。

ひとつの物語を共有できれば,それぞれの思いと感情は微妙に違っても,一緒いることかできる。

人の認知形式,思考形式には,

論理・実証モード(Paradigmatic Mode)



ストーリーモード(Narrative Mode)

がある。前者はロジカル・シンキングのように,物事の是非を論証していく。後者は,出来事と出来事の意味とつながりを見ようとする。

ドナルド・A・ノーマンは,これについて,こう言っている。

物語には,形式的な解決手段が置き去りにしてしまう要素を的確に捉えてくれる素晴らしい能力がある。論理は一般化しようとする。結論を特定の文脈から切り離したり,主観的な感情に左右されないようにしようとするのである。物語は文脈を捉え,感情を捉える。論理は一般化し,物語は特殊化する。論理を使えば,文脈に依存しない凡庸な結論を導き出すことができる。物語を使えば,個人的な視点でその結論が関係者にどんなインパクトを与えるか理解できるのである。物語が論理より優れているわけではない。また,論理が物語りより優れているわけでもない。二つは別のものなのだ。各々が別の観点を採用しているだけである。

思いと感情は齟齬があっても,意味を共有化するというのは,もはや恋ではない。したがって,恋には,意味はいらない。共振れの幻想のみが必要なのだ。

恋は思案のほか

とはまさにそのことだろう。

たしか,ロジャーズは,

クライアントの私的世界をあたかも自分自身のものであるかのように感じ取る,

といったが,ただしこう付け加えるのを忘れていない。

あたかも~のように(as if)という性質を失わないこと,

と。この制約を自覚しない共感は,共振れ幻想に過ぎない。それは恋とその極限であるストーカーに近い,というと言いすぎか?

参考文献;
ドナルド・A・ノーマン『人を賢くする道具』(新曜社)



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm






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posted by Toshi at 06:06| Comment(0) | 対人認知 | 更新情報をチェックする
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