恋
初めは,「秘める」というテーマで考え始めたが,
秘める恋
秘める思い
秘める志
秘める夢
秘める悪意
秘める怨念
と考えたところで,「しのぶ」を調べていくうちに,
しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
わが恋を 人知るらめや しきたへの 枕のみこそ 知らば知るらめ
にいきついて,結局恋のことか,とわれながらあきれた。無粋な野暮天がどの程度語れるか,ちょっと試みる。なんとなく,挫折しそうだが。
恋については,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11041914.html
で触れたが,他の言葉との関連に焦点が当たっている。ここでは,恋の心理を少し考えてみたい。なにせ野暮天の言うことだ,あまりあてにはならないが。
僕が思うには,これも,土俵で考えるといい。普通,人は自分の土俵から降りない。だから,人との会話に齟齬が生ずる。同じ土俵を仮に作って,そこで会話しなくては,そのことが共有できる場がない。これについては,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11053863.html
で触れたことがある。恋は,それと似ているが,その土俵が共有になっているかどうかは,実はわからない。あばたもえくぼではないが,まずは,
お互いが同じ土俵に乗っているつもりだけかもしれない。
あるいは,
自分の土俵に相手が乗ってくれている,と相互で勝手に思い込んでいるだけかもしれない。
土俵は同じでも,土俵の意味が,そもそも違っているのかもしれない。
自分が思っている土俵に相手が乗っていると思い込むのは,ほぼ片思いに近い。それを事実と信じ込むというか,事実と誤認するとストーカーになる。このあたり,実は結構微妙なのだと気づく。
不思議だか,相手の土俵に自分が乗っている,という気になることは少ない。相手の土俵に乗るとは,ロジャーズの言う,
相手の準拠枠
であることであり,
エリクソンの言う,
相手の枠組みであること
である。つまり,恋とは,共感性ゼロから始まるというか,そもそも恋とは,共感性とは関係なく,おのれの妄想を肥大化させたものなのかもしれない。妄想が言い過ぎなら,思い込みと言ってもいい。
おのれの思い込みの中に生きている。
いやいやストーカーは他人事ではない。
だから,自分の思いでモノを見ているので,相手が見えているものと違うことに,そもそも気づけない。いや,それが事実だと信じて疑わないのだから,事実を見せられても,それが架空にしか見えない。
恋は,はしか,という。
だから一生に一度しかかからない,あるいはだから歳をとってからの恋は,酷いことになる,とも。まして老耄の恋は。やめておけ,醜いだけだ。どうせ野暮天には縁はないが。
しかし,これは恋というより,人との関わりすべてにおいても通じることだ。
所詮人は,自分の土俵を降りないというか,降りられない。
降りているつもりが一番怖い。
「あたかも」とロジャーズが言った意味が強く響く。そういう自覚が不可欠という思いがある。
これについては,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11314480.html
で書いた。というかかなり重なったか…!。いつも考えていることは似たところへ落ち着くのか。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#ロジャーズ
#エリクソン
#土俵
#恋
#共感性
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