2013年09月24日

家族


JCAKコーチングファウンデーション講座(近藤真樹コーチ・寺田由美コーチ)第4回に参加してきた。今回のテーマは,家族。

別に向き合うのが嫌ではないし,家族との葛藤が特別あったわけでもなく,父にも母にも愛されて育ったという実感だけがあるので,いまさら振り返ってみても,かつてブログに書いた程度以上のものは出てこない,と思ったし,現実にそうでもあった。

家族ということで一番気になることは,いまの状態を続けることだ。永久には続かないにしろ,危機の時,災害時,どうして,あるいは何によって自分たちの安心・安全を担保するのか。そこが一番気になった。

当たり前だが,どう連絡手段を確保するか,その時どこにいるにしろ,どうやって,どこへ帰ってくるのか,そんなことを必ず話題にしておくことが必要なのだろう。家が確実に残っている保証はない。自分の家が耐震であっても,類焼するかもしれない。地滑りにあうかもしれない…等々。まさにリスク対策をどう考えておくか,逆に言うと,平時の基地であり,砦である家庭を,ものや形ではなく,「つながり」としてどこにあっても確保し続ける工夫がいるということだろう。

そう考えて,逆にいまの家が,一種の陽だまりのような場所なのだと,改めて感じさせられた。

家族の中で一番影響を受けた,というか,いまの自分を,いまのようにあらしめるのに,一番影響を与えたのは,誰か,という問いで,僕は正直困った。ないのだ。

瞬間に出たのは,転校だ。家族の誰かではなく,家族が巻き込まれた転勤というイベントそのものが一番影響が大きいと感じたのである。その意味では父なのかもしれないが,転勤の度に転校した自分の小学校時代のありようが,いまの自分の気質や性格,人との関わり,生き方に強い影響を与えたと感じている。

そういう自分の過去については,何度か触れたことがあるが,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10973893.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11043058.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11049581.html

今回も思ったが,転勤の中でも,高山の三年間は,故郷のない僕には,たとえようもない,いわゆる故郷体験といっていい。この時の体験が,いわば自分のリソースの源泉といってもいい。高山の話をする僕が,

「たのしそうだ」

というフィードバックをもらったが,子供時代の,

たのしいこと,もの,場所,

遊び,

お気に入り,

夢中になっていたもの,

すべてがその三年間で味わい尽くしたと思う。この三年がないと,自分の子供時代は,たぶんグレイであったのだろうと思う。妹はいじめにあったらしいのだが,僕はそういう経験が全くない。その意味では,稀有な時間を過ごしたのかもしれない。ここで経験したすべてが,いまの僕の滋味になっている,といってもいい。

父と母をリアルに表現し,語った後,父母からの手紙を書くことになったが,ここでも正直言って困った。特に何かを言われた記憶はなく,ただしたいようにさせてもらった(禁止項目は一杯あったにしろ)記憶しかなく,ああしろ,こうしろ,と言われた記憶は全くない。母が,中学時代の担任教諭に,

女学校しかで出ない私の息子ですから,

と多くを期待しないでくれ,といったらしい。中学時代は,担任が期待するほど,僕はけっこう出来が良かったらしいのだが,母はわざわざ,そう担任に告げるためだけに学校まで行ったらしいのだ。だから,何か特別求められたことも,期待されたことも,あまりない。まあ,しいて言えば,

ただ黙って見守る,

ということと,

そんなに無理することはない,

という程度だと思う。

確かに,家族や家庭は,自分の源泉だし,リソースだし,自分の価値の出発点だし,逆に自分の境界線(閾値)になっているのかもしれない。そのことを認めるのにやぶさかではないが,いつも言うように,過去に遡り,いまの自分の原因を探そうという発想は好きになれない。というよりまったく意味がないと思っている。

いまの自分のありよう,生き方が,過去をどう見せるかを決める。それだけだ。

大事なのは,いま自分がどう生きているか,だけだ。その源泉と境界が過去にあっても,それを源泉とするのは,いまの自分だし,それを境界線とするか限界線とするか,あるいはそれをスタートラインとして超えていくかを決めるのは,いまの自分だ。いい大人になって,過去のせいにしたら笑われるだけだ。

それが両親から来ていようといなかろうと,どうせ,人のDNAはミトコンドリアをたどれば,アフリカのイブ(ミトコンドリア・イブ)と呼ばれるたった一人の女性から来ている。それを言ったらキリはない。

過去は過去,それを鎖とするか自分の軌跡とするか,桎梏とするか臍の緒とするかは,いまのおのれ自体だ。

過去に拘泥するのは,いま拘泥する何かがあって,因果物語を,いまの自分が必要としているのだ。それがあると,「だから自分はこうなのだ」と納得できる,そういう説明を求めているだけだ。だから,どうするかは,過去とは関係なく,いまの自分でしかない。

父や母がどうであろうと,自分の未来を自分が決めるのなら,そういうしがらみや桎梏に拘泥する生き方は好きではない。たぶん,父も母もそれを望まないから,何も言わなかったのだ。

まあ,その意味では,父母の望む生き方をしているのかもしれない。

しかし,それはいまの連続の結果なのだ。

過去(の自分)に向き合うなら,いまの自分に,

いま(の自分)に向き合うくらいなら,未来の自分にこそ,

向き合うべきだし,それがいまからの逃避,過去からの逃避と言われようと,それがどうした,と言いたい。時間は未来に向かっている。いまの自分が未来の出発点だ。その意味でいま(の自分)が未来(の自分)の原因でしかない。そのためにこそ,いまの時間を使うべきだと思っている。

士にして居を懐(おも)うは,以て士と為すに足らず,

と。士を,道を志すものとするなら,いつまでも,「居」(故郷)に留まるをよしとしない。それが生きる,ということだ。

初めて出会う大人の世界が両親のいる家庭だとするなら,そこから多大な影響を受ける。そんなことは当たり前ではないか。それを一つ一つ確かめて,だから自分はこういう人間なのだと,納得することを,両親が求めているとは思わない。ましてや父や母がいまの自分の原因と言ってどうなるのか。

守破離

ここでも,それを早く離れることだ。離れたかどうかは,自分の生き方が,過去を脱皮するたびに見える。脱皮しなければ見えない。いわば,それが成長であり,生きる,ということだと思う。

過去は,所詮過去なのだ。

だから,過去より未来,そして未来と言うなら,個人的には,

死にどう備えるか,

ということの方が,年齢的にも,強い関心がある。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm






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posted by Toshi at 05:34| Comment(0) | 家族 | 更新情報をチェックする
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