2013年10月01日
悲しみ
悲しみという言葉で,瞬間に思い出すのは,中原中也の,
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
だが,この詩には,どこかベルレーヌの,というか,堀口大学のベルレーヌの訳詩のにほひがある。
巷に雨の降るごとく
われの心に涙ふる。
かくも心ににじみ入る
この悲しみは何やらん?
このセンチメンタルな悲しみは,悲しみというより愁い,メランコリーというのに近いのではないか。
因みに,「悲」は,「哀」とともに,いわゆる悲しみで,
悲は,喜の反対。痛なり。
哀は,楽の反対。あわれがりて,深く悲しむ。哀悼と用いる。哀は痛みの声に現れるもの。悼は痛みの心に存する。
とある。「悲」(痛み)の声に現れるのを「哀」というとある。
つまり,悲しみは痛みに通ずるらしいのだ。
痛は,身に痛みある如く悲哀を感ずることが切である,
傷は,傷心とは心を破り,損なう如く,強く痛み悲しむ,
悼は,人の死を悲しむ,
隠は,惻隠,心をそこより見ていられぬほどに痛む,
とある。こう見ると,ふたつの詩のメランコリックな悲しみは,悲しみとは異質だということがわかる。そうすると,それは哀愁というときの,「愁」に近いのではないか。
そこでまた漢字を比べてみると,
愁は,物寂しく,浮かぬ状態,
憂は,心のなかに苦労する,
患は,病や災難を苦にする,
憂は,内を主とし,患は,外を主とし,内憂外患と使う。
せいぜい哀愁という感じか。結局言語化するというのは,ある程度丸める,抽象度を上げないと,伝わるレベルにならない。そうなると,微妙な差が消えて行く。悲しみということに含まれる感傷なのか悲哀なのか憂愁なのかは,伝わりにくくなる。
しかしどんな感情も,化学物質が体内に満ちわたり,そして血液からその痕跡が消えるまで,すべてが90秒以内に終わる,という。残るのは気分だ。それは,そういう気分を選択している,ということになる。
それがセンチメンタルであれ,メランコリックであれ,自分がそういう気分に浸ることで,何かを味わっているのか,何かから逃げているのか,何かを避けているのか,ともかく,そうすることを選んでいる。
しかしどうも悲しみは少し違う。もっと深い何かのような気がする。
無疵なこころが何處にある
とか,
もとより希望があるものか
立ち直る筋もあるものか
というランボーの詩句を思い出すと,ふいに,ダイナマイトを巻きつけたジャン・ポール・ベルモンドがあわててダイナマイトの導火線を消そうとする滑稽なというか悲惨なというべきか,シーンが思い浮かぶ。ジャン=リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』のラストだ。爆発をずっと引くと,海に沈む太陽が映し出され,
また見付かった,
何が,永遠が,
海と溶け合う太陽が。
というランボーの詩句が被さる。
悲しみは,あるいは無力感と似ている。どうしても自分ではコントロールできないものに押し流される辛さと切なさとがある。ヒトの死も,ヒトの蒙る災害も,しかしそれよりなにより,自分自身の定めについて,どうにもならない巨大な奔流からまぬがれないというような無力感なのではないか。
だから,それは,喜や楽の反対というのも違うような気がする。顔淵の死で,孔子が,
天予(われ)を喪(ほろ)ぼせり
と嘆く痛切さが最も近い。いや,おのれ自身を,
鳳凰至らず,河図(かと)を出ださず,吾巳(や)んぬるかな
と嘆く悲しみの方が深い。おのれに瑞祥はあらわれず,僥倖も望めず,不世出のおのが才を生かす場のないまま,死期に近づく孔子の絶望が,本当の意味で悲しみを表している。
フランソワーズ・サガンの小説『悲しみよこんにちは』は,Bonjour Tristesseだが,その悲しみは,孔子のそれ,ランボーのそれに比べると,単なる憂愁というニュアンスが勝るようにしかみえない。
参考文献;
簡野 道明『字源』(角川書店)
ランボオ『地獄の季節』(小林秀雄訳 岩波文庫)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
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