崛起
崛起は,狂気に通じる気がする。思い詰めた何かである。
最近の出来事で,正論ではない何かが,世の中を動かすということを思い出した。かつてはいらだっていた松陰の無謀ぶりに,同じ(ではないが,似たような愚行と)狂気を感じて,ふと思い出した。それをちょっと自分なりに見直し,整理し直してみたい。
吉田松陰の『講孟余話』で,理論だって,冷静な正論を吐いているのは,大儒・山県太華だ。攘夷について,
漢土の例にならって,時刻を中国といい,他国を夷狄といい,我は尊く,彼はいやしいというべきわけがない。海外の諸国も,皆人間の国であり,禽獣虫魚とは違う。天がこれら外国の人々に倫理・道徳の根本を与えること,皆同じである,
という,どう聞いても正論である。あるいは,
天下は一人の天下である,という松陰に対して,
天下は一人の天下に非ず,天下の天下である,
と,まあただっこに対して冷静な論理で突っぱねるのに似ている。
しかし,である。正しい言い分では,世の中は動かない。というよりも,その冷静さは,いま現在の受益者,と言う言い方が悪ければいま現在の体制の側にいるものの保身のにおいがする。当然,そういう冷静な理屈では,時代の突破力を持たない。
時に狂気のような力がいる。
たしか来島又兵衛(だったと思う)は,蛤御門の変の前,逡巡するものに,
而して,
という口癖を皮肉っていた,と思う。「而して」と言いつつ,結局なにもせぬ,と。多分又兵衛は,その屁理屈に,保身と防衛を嗅ぎつけたに違いない。もちろん,猪武者がいいなどとは思わない。
暴虎馮河し,死して悔いなき者は,吾与にせざるなり,
と孔子の言うとおりである。しかし,皆が,そのように,「而して」と言っているばかりでは,時代は動かない。
欺くこと勿れ,而してこれを犯せ,
とも孔子は,主君に仕える心得について尋ねたのに,答えている。
松陰の,
草莽崛起,
とは,
恐れながら天朝も幕府もわが藩もいらぬ,ただわが六尺の微躯あるのみ,
の気概である。あるいは,孫子の,
死地に陥りて而して生く,
の覚悟である。そういえば,松陰と立場は少し異にするが,横井小楠も,
人必死の地に入れば、心必ず決す,
と言っていた。草莽崛起とは,ひとごとではない。
おのれ自身の責任として,おのれの身に引き寄せて,おのれ自身が,草莽として,崛起するのでなくて,おのれの責を全うしたことにはならない。だから言う。
時を待つの人に非ず,
草莽崛起,あに他人の力をからんや,
往く先崛起の人あるかなきかを考えてみねばならぬ云々,是は勢いを計り時を観るの論なり,
と。
理屈を捏ね,而してと言う人は,ただ傍観者である。傍観している間にも,事態は悪化する,ひとごととは思えぬものが,
やむをえず,
やむにやまれず,
取る行動を僕は全面的に容認する。
何にもしないで冷ややかに評論ぶっている奴より,いたたまれず何か(突拍子もないことを)する奴の方が好きだ。その心根に共感する(こういう時にこそ,共感という言葉はある)。まして,(そいつが)大勢に,寄ってたかって打擲され,貶められているのを見ると,性分としてほっておけない。それが孤立無援の闘いをしているならば,…理非曲直を問わない。直ちに助太刀に入りたい気持ちだ。意味は違うが,
義を見てせざるは勇無きなり,
ではないか。
狂にして直ならず,
のものを見たことがない,と孔子は言う。中庸の人,孔子ですら,こう言う。
中行を得て,之と与にせずんば,必ずや狂狷か,狂車は進み取る,狷者は為さざる所有る也,
と。いま必要なのは,冷静な評論でも,権力の金棒引きでもなく,そいつらを蹴散らす突破力だ。
理非曲直を問わない。
直情にして,果断,
な思いの突出こそが必要だ。
参考文献;
村上一郎『草莽論』(大和書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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