家近良樹『西郷隆盛と幕末維新の政局』を読む。
あとがきで,著者は,
従来の日本史研究者があまりにも健常者中心であること,
を問題意識に,西郷隆盛のストレスを,久光との葛藤を通して,幕末から,明治六年の政変まで辿る。是非はともかく,西郷隆盛の抱えていた桎梏が見え,それはまた同時に,西郷自身のものの考え方の一貫した軸のようなものまでをあぶりだすところが,いままでの史書にない,斬新さといっていい。
朝鮮へ政府要人を使節としてなにがなんでも派遣しなければならないほど,朝鮮問題が緊迫化していないなかで,
西郷が朝鮮使節志願を,突然,閣議で願い出た後,板垣(退助)に,協力を求めて,
是非,此処を以テ戦に持込不申候ては迚も出来候丈に無御座候付,此温順の論を以テはめ込み候へば必ズ可戦機会を引起し可申候付,只此一挙に先立,死なせ候ては不便杯と若哉姑息の心を御起し被下候ては何も相叶不申候間,只前後の差別あるのみに御座候間,是迄の御厚情を以御尽力被成下候へば死後迄の御厚意難有事に御座候間,偏ニ奉願候。最早八分通は参掛居候付,今少の処に御座候故,何卒奉希候…
という必死の手紙を認める。著者は言う。
この文面からは,当時の西郷が,まるで死神に取り付かれたかのように死に急ぐ姿が浮かび上がってくる。
と。この後,三条(実美)との会見を板垣に報じる,西郷の文面にも,
此節は戦を直様相始め候訳にては決て無之,戦は二段に相成居申候。只今の行掛りにても,公法上は押詰候へば可討の道理は可有之事に候へ共,是は全ク言訳の有之迄にて,天下の人は更に存知無之候へば,今日に至り候ては全ク戦の意を不持候て,隣交を薄する儀を責,且是迄の不遜を相正し,往先隣交を厚くする厚意を被示候賦を以,使節被差向候へば,必ズ彼が軽侮の振舞相顕候のみならず,使節を暴殺に及候儀は決て相違無之候間,其節は天下の人,皆挙て可討の罪を知り可申候間,是非此処迄に不持参候ては不相済場合に候段,内乱を冀ふ心を外に移して国を興すの遠略は勿論,旧政府の機会を失し無事を計て終に天下を失ふ所以の確証を取りて論じ候…
と,その動機を余すところなく語っている。
第一は,「使節を暴殺に及候儀は決て相違無之候間,其節は天下の人,皆挙て可討の罪を知り可申候」と,本来なら征韓するほどの理由がなかったにもかかわらず,それを強引につくりだそうとしている,
第二は,「内乱を冀ふ心を外に移して国を興す」と,不平士族の不満をそらそうとしている,
第三は,「旧政府の機会を失し無事を計て終に天下を失ふ所以」と,旧幕府が平穏節を計り,事なかれ主義に陥ったために滅んだが,新政府の現状はそれに近いという危機意識がある,
というのである。それにしても,と著者は言う。
西郷はひどく急いていたのである。ここには,余裕を失っている,それまでの西郷とはまったく異なる別人の姿が見られる…
と。そして,この時期,西郷は,極度の体調不良に陥っていた。
数十度の瀉し方にて甚以て疲労…
という状態なのである。これは,下剤を日常的に用いていたゆえに起きたことだが,それは,陛下から遣わされたドイツ人医師の,持病である「肩並びに胸杯の痛み」対策として,肥満解消のための瀉薬療法と食事療法という処方にもとづくが,このために,日に五六度の下痢に苦しめられることになる。
その原因となった西郷の持病に,著者は,ストレスを見る。
その一つは,西郷の性格である。一般には豪放磊落と受け止められているが,
ステレオタイプ化された西郷 隆盛像から離れて,西郷のありのままの姿を追う…,
として次のような特徴を上げた。
第一は,軍好き。単なる戦闘好きだけにとどまらず,戦に臨む前の緊張感を持って日常を生きるのを好んだ。
第二は,多情多感。目配り,気配りの凄い,きめ細かな感情の持ち主。感情の豊かな人間味あふれた人物であった。血気にはやり,自分の感情を率直に噴出させるタイプで,その分好き嫌いが激しい。「相手をひどく憎む」「度量が狭い」という藩内の評もある。
第三は,策謀家・政略家。緻密かつ論理的・組織的な頭脳の持ち主。あ相手との駆け引きを楽しむタイプ。無策な人間を軽蔑した。ただし策略家としては,失敗が多い。
そして,著者は,
こうした容易に他人に信をおけないタイプの人間は,当然相手の行為をめぐって憶測をたくましくし,そのことで強いストレスを受ける羽目になる。
というが,むしろ,西郷が矢面に立つほかない出色の人物である故に,というべきなのかもしれない。そして,西郷の特色は,常に死の意識が付きまとっていることだ。いつくかのエピソードで有名なのは,僧月照と入水自殺から,一人生き延びた後,大島に流罪になるが,このエピソードで,
南洲は此事あってより後は…終始死を急ぐ心持があったものとおもわれる,
という(重野安繹の)回想もあるが,西郷自身は,「土中の死骨」と自ら称し,
投身という「女子のしさうな」手段を講じ,しかも自分一人生き残ったことを悔いる言葉を吐いた,
という。それが強く西郷の中にあったらしく,それを象徴するのが,二度の流罪から赦免されて軍賦役になった西郷が,長州藩邸に乗り込み,長州藩を関係者を説得するとして,
迚も説得いたし付け候儀は六ケ敷候得共,承引致さず候迚空敷帰し申す間敷,殺し候えば長には人心を失い申すべし,
と,朝鮮使節と同じ発想,自分の死を持って,軍の名分を立てようという発想がみられる。
しかしそれ以上に,ストレスとなったのは,斉彬死後,国父として薩摩の実力者となった島津久光およびその近臣との間での葛藤として,現在化する。
とりわけ,「地ゴロ」(田舎者)発言以来,久光の憎悪を一身に受け,奄美大島,沖永良部島と二度の流人生活を余儀なくされ,軍賦役で復帰して以降は,久光を意識し格段に慎重になった,と言われる。
しかも慶応三年時点ですら,武力倒幕に傾く,「暴論派」は,藩内でも少数派で,小松帯刀も,慶喜の大政奉還以降,慶喜を新体制の中心に据えようという方向に転じ,京都藩邸ですら,武力討幕を志向するものは少数派であった。しかし,この時期に,久光は,体調不良に陥り,国元へ帰国,代わって,藩主茂久が上洛,以後,その機をつかんで,曲折を経ながら,鳥羽伏見で,戦端を開くに至る。
藩の大勢,当然久光自身も,倒幕を容認していない。そんな中で戊辰戦争に引きずり込まれ,薩摩藩は,多大の犠牲を払い,しかも人口の四分の一にまで達する,他藩と比較にならない20万人に及ぶ武士が,廃藩置県で路頭に迷うに至る。その憎悪とプレッシャーは,西郷に重くのしかかっていた,と言えるだろう。
それが病気の一因かどうかはどうかはわからないが,西郷という人間に大きなストレスを与えていたことだけは間違いない。少なくとも,ただ,西郷自身の志向だけから,征韓を急いだというより,薩摩の藩内事情(久光の反発を含めた)が,西郷にその善後策を強いたということだけは間違いない。その責めを一身に背負うタイプの人間でもあったということだ。
そうした西郷を取り巻く環境を,病気という切り口で,いままでは異なる歴史の断面を剔抉した手際は,鮮やかだと思う。
ところで,小松帯刀と島津久光の体調不良がなければ,鳥羽伏見に始まる戊辰戦争を経た明治維新への回路はよほど違ったものになったということを,感じる。著者は,小松が体調を崩して鹿児島から上洛できなくなったのを,
…このことが薩摩藩ひいては日本国そのもののその後の運命を大きく変えることになったと言ってよい。
と,述懐する。確かに,「たら」「れば」は歴史にはないが,こう思わせるのは,結局歴史を作るのは人間だからだとつくづ思う。
参考文献;
家近良樹『西郷隆盛と幕末維新の政局』(ミネルヴァ書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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