写真
このところ写真をよく撮る。もっともコンパクトデジカメかスマホなので,写真機に凝るということはない。ただ,目に触れるもので,ちょっと気になると,撮る。そういう意識でいると,不思議と感覚が研ぎ澄まされる(そうたいそうなことでもないが)。視野のわずかな異変というか差異に敏感になる。ちょっと敏感になりすぎて,転んだこともあるが。
しかし写真を撮っても,最近はほとんどプリントアウトしない。撮ること自体が目的化しているのかもしれない。
不思議なことに,写真は,客観的に事実を伝えている,というように錯覚することがあるが,そうではない。文章を書くのとほとんど同じだ。専門家ではないので,あくまで素人談義だが…。
文章のもつ,そういう偏りについては,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0924.htm
でも触れたが,写真の場合は,フレームと視角がそれにあたる。そのフレームで切り取ること自体が,文章で言う「辞」に相当する。つまり,「詞」である事実を,主観でくるんで取り出している。その(主観という)フレームを外せば,偏りはあるにしろ,事実に違いはないが,フレームで切り取った瞬間,なにがしかの「私」性を主張している。
視角というのは,あるいは,見える角度というものかもしれない。どういう角度で切り取るか,それは,ズームを押したり引いたりするのも同じだ。その場面を切り取った時,そこに,意図がある。
視覚のことはよくわからないが,肉眼で見たものと写真を撮ったものでは,ずいぶん印象が変わる。視覚の方がはるかに素晴らしい。この差を埋めるために,また撮る。この差は多分埋まらない。その分,アングルや近接の調節で,カバーすることになる。
こんな言い方もある。
写真は対象の選択,対象と撮影者との物理的距離,対象の様態,撮影するタイミングなどによって,撮影者の心や世界に対する態度を反映する。写真は少なくともこの意味で確かに撮影者の創作物であり,表現の手段である,
と。でも,そうなると,最初に撮ったもの勝ちのところがなくもない。同じ場所に大勢のカメラマンが集まってシャッターチャンスを狙うのも,そういう心理があるような気がする。でなければ,同じ場所にはいない。人とは違う場所を探す。僕なら,人の撮るものは撮らない。
写真詩というものがあるらしい。
結局,言葉でも写真でも表現し尽くせないから,つけたしたくなる。
写真一枚に,仮に土門拳の写真に,いらぬ詩がついていたら,張り倒したくなるだろう。
表現は,詩でも,小説でも,写真でも,絵でも,世界を描く。その世界が,リアル世界に近似か,はるかに遠いかはどうでもいい。問題は,そこで表現されたものが,独立した世界を描ききれなければ,それは表現の失敗なのだ。
昔,小説は,世界を描く,と先輩が言った。その意味が,今頃になって,やっとわかってきた。その世界は,
リアルのいま,ここから,下っていく,
場合もあるらしいが,僕の場合は,
リアルのいま,ここから,上っていく。
その世界が,幻視にしろ。幻想にしろ,目の当たりに描き出せなければ,その世界は存在できない。
そういう試練をいつも繰り返し,ずっと失敗してきた。
写真も,リアルと対比して,
あああそこね,
あれは綺麗だったね,
と言われるうちは,スナップ写真の域を出ない。それが何處であれ,それ自体で,ひとつの虚構世界を現出させて初めて,写真という表現手段によって,世界を出現させたことになる。
それは,その一枚で,リアル世界と拮抗するものでなくてはならない。
どうせ写真を撮るなら,そういう写真を撮ってみたい。
それはカメラのレベルではなく,表現者としてのレベルの問題なのだから。
そのとき,
綺麗,
とか,
美しい,
という反応ではなく,
絶句,
という反応でなくてはならない。
僕は絵や映画はわからないが,小説では,呆然自失したことがある。そういうものでなくてはならない。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#写真
#デジタルカメラ
#スマホ
#世界
#リアル世界
#虚構世界
この記事へのコメント
ゴルフ用品通販
プラダ 財布
モンクレール2014 秋冬メンズ
iphone5ケース
ナイトキャップ