2013年11月14日

引っ掻き傷


かつて入社してしばらくたったころ,年長の先輩から,

この会社に引っ掻き傷を残せ,

と言われた。その時は,何か自分の名前のついて回る新商品を出せ,という意味だと聞いていたものだが,いま考えると,そういうことだけではなく,もっと,自分という存在が,そこにいた痕跡を残せというような意味だと理解している。

いまはこの会社は,社員の何人かが買い取って,別の会社になっているが,ついこの間まで,何十年も前に開発した自分の商品を継続して売っている,と聞いてびっくりした記憶があるが,痕跡は,そういうことではなく,

自分の仕事の仕方,

自分の仕事のスタイル,

自分の仕事のノウハウ,

自分の仕事の流儀,

自分の戦いのスキル,

が,会社の仕事の仕方として,(誰かの中に)残っていく,大袈裟に云うと,風土や文化として残っていく,というのがいわば誇りの原点のように思う。変化の激しい時代だから,そんなことは望むべくもないが,そういうつもりで自分の仕事の流儀をつくりあげていくというのは,なかなか面白いのかもしれない。

いまは一人で仕事をしているが,それは,自分の仕事の仕方,自分の考え方,自分のノウハウ,自分のスキルそのものが,商品になるかならぬかを日々試される連続であった。

僕は基本的に,誰かのやり方,誰かの発想,誰かのスキルを受け継いだことはない。言ってみれば,あっちこっちから「いただいた」ものを自己流につなぎ合わせただけかもしれないが,すべては,「僕の」と名札をつけられるものだ。誰かの受け売りでも,誰かの系譜を継ぐものでもない。あえておこがましい言い方をすれば,僕の流派そのものだ。たとえ細々とした流派でも,それが,こういう家業をやるものの気概だと信じている。だから,誰かの弟子にも,誰かの免許も,誰かの教えも受けないできた。だから,よくよく聞くと,なんだい,それは,アメリカの誰かの受け売りではないか,とか何処かのコンサル会社で学んことではないかとか,ということは一切ない(つもりだが,継ぎ足しだから,自信はないが)。

たった一人の,なけなしの頭で,我流でつくり上げてきた。だから,ときどき「出典は」とか,「どれくらい信憑性があるか」とかという問い合わせをもらうが,(権威性のない自分も情けないけれども)そんなものはない。試してみればいい,いいと思えば使えばいいし,だめなら捨てればいい。それだけのことだと思っている。そもそもそういう発想をしている人は,結局権威に依存して,その虎の威を借りないとものが言えない人なのだと思う。

そう考えてから,産業カウンセラーのシニアの受験資格を得ても(それなりの投資をして講座をすべて受けたが),受験するのをやめた。以来,資格を追加するのをやめた。資格でモノを言ったり,資格の意向を借りるのは,結局虎の威を借りないと,自分の言っていることに箔がつかないと思い込んでいるのだと思うようになった。

昔知り合いのコンサルタントが,コンサルタントは,

虚業

だと言った。その意味が分かる。必要不必要とは別に,実業の修羅場にいないで,修羅場について,コンサルティングするということの,おこがましさがわかっていない人が多すぎる,と感じている。

自分は実業の場を,逃げ出したか,ほおり投げたか,卒業したか,リタイアしたか,は知らない。ともかく,脚抜けした,今その場にいない,ということの自分の存在の軽さを意識しなくてはいけないとつくづく思う。

ずいぶん昔,経営学者が自分の会社の社長になってその会社を潰したということがあったが,その乖離がわかっていないということだ。その距離は,遥かに大きい。だから,

何をするために,そこにいるのか,

という,(E・H・シャインのいう)どんなプロセス・コンサルテーション(医者,看護師からコンサルタント,コーチ,セラピストまで)に携わっているものも,自分の出発点を忘れてはいけない。

現場を逃げ出して,コンサルやコーチやカウンセラーになってほっとしている人間が,上から目線で(メタ・ポジションという便利な言葉がある)モノを言うのは,おのれを知らなすぎる。逆に,

逃げ出したからこそ,

その修羅場がわかり,ものがよく見えるというのなら,それはそれで伝わる。

なんだろう,自分は,この世の中を動かす修羅場に直接携わってはいない。楽なところにいる,という後ろめたさを持たないのだろうか。

原子力の専門家は,安全なところから,評論する。現場の人間は,毎日,修羅場をくぐっている。くぐらなければ,現場を変えられないからだ。先日いわきにいったが,いわきを拠点にして,原発に向けて一直線につながる国道沿いを,毎朝,大勢の作業員の人が,車に分乗して出かける。除染の人,工事の人等々等々…。それを現場と呼ぶ。

必要なのは,その修羅場を戦い抜くための武器だ。専門家というなら,そのための武器を提供する。それが第一線で戦っている人々への礼儀というものだ。

ほんとうの幸せとは何か,

本当にしたいことは何か,

ほんとうの自分と出会う,

おいおい,本気かよ。いま修羅場で,戦場で戦っているものに,それはないだろう。それって,戦いをやめろっていうことなのか。僕には,楽なところにいる人間の,たわごとにしか見えない。人を見くびりすぎているように思えてならない。

仮設に住みながら,ずっと新規会社を立ち上げている人たちと会話してきたが,その人に言うべき言葉を持っているなら,一緒にやればいい。言うべき言葉がないなら,黙って,別のフォローをすればいい。一番は,戦う武器を提供することだ。

こころのケアお断り

の張り紙(を貼りだした仮設住宅の人の思い)の重さを感じる感性がなかったら,

あるいは,

自分への後ろめたさがなかったら,

人間としてどこかおかしい。プロセス・コンサルテーションに携わる人間なら,なおさらおかしい。僕は,徹頭徹尾彼らに役立つスキルだけを,対話しながら伝える,というより一緒に考える。それだけが,現場を動かす,彼らの自信となると信じているからだ。

自分について考えるのは,

どう生きるかとか,

どう自分の人生を受け入れるかと,

何のために生きているのか,

等々は,立ち止まって考えることではない。戦いながら,走りながら,考えるべきことだ。ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』の中で,うろ覚えだが,「赤の女王」は,

その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない,

と言っていた。戦うとは,立ち止まれないということだ。そこから脚抜けしたものには,彼我のスピード感の落差に気づけない。

僕も,確かに,修羅場で戦いながら考えていた。走りながら考えていた。その時の方が,フルスロットルで,頭は高速回転していたと思う。

だから,そんな程度の問いは,自分の中にある。誰にでも,そういう問いがある,と僕は信じている。それを後回しにしても,やりきらなければならない何かを抱えているだけだ。もしそういう現場にいる自分に嫌気が差せば,人に言われなくても,さっさとリタイアするだろう。(いつだったか,タクシーの中で,女性のドライバーの人が,ある日突然その臭気に耐えられなくなって福祉施設を辞めてゼロから男と伍するタクシードライバーに転じた,と言っていた)。

はっきり言って,それは本人が自分自身で考えるべきことだ。おのれの人生の責任を負っているのは,自分自身だ。僕はそんなあほなことを,上から目線で教えるような人間にはなりたくない。それは,人間としておかしい,と思っている(もっと言うと,そんな楽なことをヒマこいて考えていられるのは,いま修羅場で戦っている人々がいるおかげではないのか)。

僕のすべきことは,

その修羅場を,動かしていくために,どうすればいいのか,

その修羅場は,どうすれば,もっと楽に動くのか,

その修羅場を,戦いきるために何があればいいのか,

それを一緒に考える。

その時,

その場で,

その人と,

という一回性の中で,正解なんてない。しかし,どう考えれば,それに風穴があき,どうすれば,それを動かせるのかの,考え方,スキルは,身の処し方は,一緒に確認できる。

もし役に立たなければ捨てればいい。スキルとはそういうものだ。そして,スキルは,おのれが使えなければスキルにならない。

僕にできることは,もっとはっきり言うと,

修羅場を動かす武器

を,一緒に磨いていきたい。ビジネス・スキルとは,そういうものだ。

まだまだ磨き足りない。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




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posted by Toshi at 04:56| Comment(1) | 生き方 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
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Posted by モンクレール 新作 2014 at 2013年11月14日 18:28
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