2013年11月17日

野臥



中田正光『伊達政宗の戦闘部隊』を読む。

戦国大名の軍事力の基礎となる,戦闘部隊,兵站部隊の実像は,よく分かっていないこと言う。本書は,

後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされる一年前の天正十七年(1589)年,伊達氏が相馬攻めの為に領内一部郷村で陣夫動員調査を行った『野臥日記』をもとに,動員兵力の内実に迫ろうとした。

記録に残っているのは,現在の宮城県白石市の一部と刈田郡,福島県の信夫郡,伊達郡の一部で実施された記録である。

『野臥日記』では,当時郷村に住んでいる壮年男子をすべて書き記しているが,家族や女性,子供が記されていないため,村の住民数まではわからない。野臥とは,百姓たちが武装した状態をいうのだそうだ。「野伏」とも書く。

ただ記録には,比較的裕福な家主,半自立的で未だ自分の耕作地を持たない名子,家主に一生隷属している下人が記されており,煩い(病人),牢人,行人(修験者),中懸(なかけ=下層家臣組士)が記録されている。さらに,馬上の侍である「平士」(へいし)に相当する地頭(郷村の領主)としての地侍なでが記されている。

たとえば,こんなふうに記されている。

かぢや    大波分

上 や一郎
上 四郎兵へ 大分
上 藤十郎
上 与二郎

大なミ殿分
上 寺嶋二郎兵へ
上 大波与三さへもん
上 わく沢新兵へ
上 助ゑもん
上 たんは
山伏 大泉房
上 新さえもん
上 や一郎

上というのは,健康状態を上中下で区別したもの。「かぢや」は,農耕具や刀槍といった手工業的作業に従事していた非農業的存在の在家という意味。「大波分」とあるのは,大波玄蕃という地頭が知行していることを明記している。「大なミ殿分」は,山伏を含めた八人を,大波氏が扶持しているということであ。なお,大波氏は,伊達家の中で「召出」という,門閥的な存在であったと推測されている。これによって,鍛冶屋在家の四人と,大波殿分の八名が,陣夫として動員可能と判断されたことを意味する。

在家(ざいけ)というのは,本来は一軒の農家のことを言う。しかし実際には,数軒集まって在家と呼んでいることが多い。屋敷,菜園を含めてそう呼ぶ。屋敷の主人は家族兄弟のほか,名子,下人まで従え,農家とはいうものの経済的には恵まれている。本来,在家とは郷村に数人いた地頭地主(伊達氏と御恩と奉公の関係にあった家臣)が税を徴収する際の呼び名で,在家農民と直接相対していたのは地頭たちということになる。大名は,こういう地頭を介して,郷村支配を行っていたが,『野臥日記』は,直接把握しようとしたものと見ることができる。

郷村に根を張り,多くの耕作地や在家を所有し,自らも農耕に従事していたような地頭こそが伊達家家臣団のなかの「馬上の平士」に相当する(地侍・土豪)。もしその村が大名の直轄地の場合は,地頭的存在は,伊達政宗自身ということになる。

もう一例。小国郷の中島在家。

中島   大波分
上 十郎ゑもん
上 惣さへもん
上 助十郎
御なかけ てらさき弥七郎
同    かんのとさの守

ここには二人の「御なかけ」(名懸)というのは歩卒の足軽で,弓組,鉄砲組が主力となっていた。これは,伊達氏と「奉公と御恩」の関係にある給人(知行地を与えられている家臣)ではなく,単に伊達氏に抜擢された有力農民であり,地侍・土豪のように馬上は許されない。しかし,著者は言う。

伊達氏が有力農民たちを歩卒侍(中懸衆)として抜擢して,伊達氏直属の弓衆に仕立てることで,村では地頭大波氏との徴税関係を廃止し,地頭と有力農民の名懸たちを引き離す結果となったことを意味する。

つまり農から兵への分離のはじまりである。やがて名懸を城下に住まわせ,村から引き離そうという展望があったことを示している。

と。こういう軍勢構成から考えれば,

ある時期,伊達氏の軍勢一万のうち,直臣は500程で,残りはほとんどが郷村からの動員兵や臨時雇いであった,

という。つまり,

伊達氏は,重層的に直臣である家臣団を形成し,さらに,郷村の地頭領主を召出や平士として,さらに在家農民から多くの兵士を動員していった,

のである。となると,映画や小説のような激しい戦闘はしにくいはずである。なぜなら,

こうした兵を失うということは村の崩壊につながりかねなかった。つまり,耕作者を失うことを意味していたからである。ましてや,伊達氏の直轄地から集められた者たちが多ければ年貢が見込めなくなる…。だから合戦以前には必ず調略という誘いの手を伸ばし,戦わずして勝つことを℃の武将たちも求めていた。

それは当然,戦いになって,

撫で斬りその数を知らず,

と必ず戦勝報告に記す,常套句も信じてはいけないということを意味する。領有しても,村々に耕作者がいなければ,何のための戦いだったかがわからなくなる。

いまひとつは,最近は,「乱取り」が常識的に言われるようになったが,野臥主体の戦闘集団の狙いは,乱取りにある。

当時のおもな合戦のねらいは乱取りであって,村や町を襲って金目になる物を奪い取ることに主眼が置かれた。なかでも牛や馬は在家農民(野臥)たちの貴重な家財…,

であったらしい。それは伊達氏が,兵農分離が進んでいないせいだという常識を,著者は疑っている。基本的に,程度の差はあれ,伊達家の軍隊構造と変わらなかったのではないか。

現に,関ヶ原の合戦終了後,徳川軍の雑兵たちは引き揚げ途中で,牛馬の略奪に夢中になっていた,といわれる。実態は変わっていないのである。

こうした地頭と在家の関係を決定的に断ち切るきっかけになったのは,秀吉であり,惣無事令の儀の発令によって,大名間の私闘だけではなく,百姓・町人の自力救済の武装蜂起も否定した。やがて,支城廃棄,刀狩り,検地と,次々と全国均一の仕置きが進められ,兵農分離への本格的な一歩となっていく。

この後,帰農するか城下へと移り住むかの,一人一人の選択がやってくる。それは身分社会の確立への道でもある。



参考文献;
中田正光『伊達政宗の戦闘部隊』(歴史新書y)


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posted by Toshi at 05:52| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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