2013年11月24日
仮説
野中 郁次郎氏の言葉(知識は思いの客観化プロセス)をもじると,仮説を立てるというのは,
おのれの思いの客観化プロセス,
であると思うが,検証されるまでは,妄想に過ぎない。しかし,だからと言って,
集めた情報から読み取った結論,
数字の統計処理から結論づけられた数値,
は仮説とは呼ばない。そんなものは,誰がやっても同じ結論になる。誰が読んでも同じ結論になるようなものを仮説とは呼ばない。
誰も読み取らないような意味をそこから読み取るから,仮説として立てる意味がある。
その根拠は,甚だ主観的なものだ。
あれ?
何これ?
どうして?
何か変?
そういう自分の直観である。それは,ある仕事に携わって,あるいは担当して,三年以上たっていれば,当然,
当たり前感,
当然そうなるはず,
順調感,
といったビジネス上で,円滑というか順調というか,そういう当たり前感がある,その当たり前感に,わずかな違和感を覚えたとしたら,そこに何かがある,そう考えるのが当たり前である。
ベイトソンは,
情報の1ビットとは,(受け手にとって)一個の差異(ちがい)を生む差異である(のちの出来事に違いを生むあらゆる違い)。そうした差異が回路内を次々と変換しながら伝わっていくもの,それが観念(アイデア)の基本形である。
と書いた。僕流に言い換えると,情報とは差異である,ということだ。つまり,
人と同じところを読んだって人と同じことしか出ない,
ということだ。とすれば,
人とは違うところ,
人が当たり前とするところで,わずかに感じた違和感,
を大事にする。数値でも同じだ。
何か気になること,
引っかかるところ,
があるはずだ。たとえば,何某が,4.0となっていたとする。その.0と丸めたところに着目しなくてはならない。
4.00
なのか,
4.04
なのか,
0.4001
なのかによっては意味が違う。そういう微妙な差異にこだわる。統計処理された結果だけを云々するのは,仮説を立てようとする人間のすることではない。
統計処理されたとき,意図的か無意識的か,数値を丸める。その丸められたところに,意味があるかもしれないのである。結果だけからものを推測するのは,誰にでもできる。仮説をわざわざ立てるのは,そこではない,人の着目しないところを着目する。
ピーター・F・ドラッカーは,
情報とは,データに意味と目的を加えたものである。データを情報に転換するには,知識が必要である,
といった。それは,違う言い方をすると,我々が目にする情報は,
意味と目的によって,鉛筆が舐められている,
ということだ。意図したかどうかではない。情報とは,基本,そうやって主観的に整合性を取らなければ,情報にはならない。
その意味で,仮説を立てるものは,
情報の読者,
になってはならない。あくまで,別の視角,別のメタ・ポジションから,情報を俯瞰する観点を持たなければ,読者となり,情報発信者の丸めた(整合性をもたせた)情報を,意図通り読む羽目になる。
そのカギは,おのれの問題意識,もっとはっきり言うと,
疑いの目,
しかない。たしかに,
疑う,
疑問をもつ,
というのはメタ・ポジションではある。それには違いないが,しかし,それが狭い管から見ていることに変わりはない(「管見」とは言い得て妙)。
だから,人によって,着眼が違うのである。そこから出る結論は,情報分析(に限らないが)は,
自己完結してはならない,
ということになる。
自分の中からだけからは,自分なりのゆがんだトンネルビジョンしか得られない。他人というもう一つのメタ・ポジションが必要なのである。
別にこれは仮説には限らないが。
参考文献;
P・F・ドラッカー『経営論』(ダイヤモンド社)
グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』(思索社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#P・F・ドラッカー
#経営論
#グレゴリー・ベイトソン
#精神の生態学
#仮説
#情報分析
#差異
#目的
#メタ・ポジション
#統計処理
#野中郁次郎
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください