2013年11月27日
演出
先日聴かせてもらった落語会で,前座(柳家こはぜ)と真打(その師匠の柳家はん治師匠,古今亭志ん陽師匠)の噺を聞き比べる機会があり,その違いを,よく分かりもしないのに,素人なりに,考えてみた。明らかに間や話しぶりに差はあるが,それ以上に違うのは,話の構成だと感じたのだが…。
以前,噺家は,演者であると同時に,演出家でもある,あるいはプロデューサーである,と聞いたことがある。
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11225523.html
あるいは,フィルムを最後に編集するという意味では,監督なのかもしれない。
古典にしろ,新作にしろ,ストーリーと登場人物は決まっている。しかし,
ただ,それをシーケンシャルに流していくやり方もあれば,
全くプロットをつなぎかえて,話の構成を編集するやり方もある,
あるいは,シーケンシャルの起承転結を変えてしまうやり方もある,
更には,(ここまではあまりかもしれないが)登場人物の主役と脇役を入れ替えることもあるかもしれない,
つまり,噺家は,
話全体を構成し直し,
登場人物を再編成し,
場合によっては,登場人物の性格づけを変えたりして(『芝浜』について談志がそんなことを言っていた気がする),
話全体を改めてリニューアルし直す。
当然,それによって,主要な登場人物の入れ替わりはないにしても,人物の造形,その濃淡,遠近は変わる。場合によっては,それを語る視点が変わるかもしれない。
と,ここからは勝手な空想なのだが,こういう話の構成やプロット展開ができて,初めて,自分の世界を創り出すことができる。
つまり,話全体を俯瞰し,それを思うまま,面白く仕立てることが出来なくてはならない。
たぶん,前に,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11368224.html
で触れた,
間,
とか,
テンポ,
とか,
リズム
というのは,どれだけそれがあるレベルに達していても,話全体の世界ができていないと,所詮会話ややり取りの部分だけが図として浮かび上がり,聞いた後に何も残らない。
すぐれた世界を持つ小説を読んだ後(これは映画でも,芝居でも同じだが),心の中に,自分が一体になって生きていたような感慨(悲しみや喜び,憤り等々の感情や気分)を引きずる。浸りきれば切るほど,余韻は長く続く。
世界に向き合う(読む,聞く,観る)というのはそういうことだ。
だから,前回,会話の図化と言ったが,それだけでは,ただ会話自体を浮き上がらせるだけで,話全体のなかでの,その会話,やりとりの位置づけというか意味づけがなければ,ただの会話の連続になりかねない。
演出家あるいは監督で,ドラマの出来不出来が決まるように,ここの役者の演技力だけでは,噺の出来不出来を左右できない。
左右できるのは,噺家が,その世全体界をどういう世界にしていくかという,大袈裟に言うと,
世界観,
というか,
世界像,
というものがいる。あるいは,それが噺家の人間観や価値観なのかもしれないが,
それが,話の雰囲気を醸し出し,噺家の佇まいになり,味わいになれば,もはや,まくらと本筋の区別は意味がない(かつて聞いた小三治の,正確に覚えていないが,アメリカ留学記だったか何だかは,全編まくらのような印象だ)。
こうみると,落語家の噺は,そのつど,ちょっと味付けが違う程度の差ではなく,全く別の噺かと思うような,独自の雰囲気に変わることがある。
そういう属人性こそが,噺であり,そこに噺家の手柄がある。
噺は,自己表現だとつくづく思う。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#柳家こはぜ
#柳家はん治
#古今亭志ん陽
#落語
#落語家
#噺家
#噺
#まくら
#談志
#小三治
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください