第66回ブリーフ・セラピー研究会定例研究会「ナラティヴ・アプローチ入門」(講師:安達映子先生)に参加してきた。2日間にわたる研修は,中身がいっぱい,整理するのにしばらく時間がかかる。
ナラティヴは,
語りtelling
と
物語story
として理解すること,というのが,ナラティヴを考えるときの基本なのだと,感じた。それは,背景として,社会構成主義,とりわけ,ベイトソンの考え方に基づいていることから考えれば,至極もっともだ。
ベイトソンは,
コミュニケーションを決めているのは,送り手ではなく,受け手である,
という。その例を,レジュメから拾うと,
母1;「また今日も帰りは遅いの」
娘1;「うるさいなあ,仕方ないでしょ,バイトなんだから」
娘2;「心配かけてごめん。明日は早く帰るから」
娘3;「うん,たぶん,11時過ぎちゃうと思う」
というやり取りで,娘の反応で,母親の反応が変わる。
1なら,むっとして,文句を言う母親にさせられる。
2なら,やさしく反応する母親にさせられる。
3なら,気をつけてね,といった反応をする。
というように,もともと多義的な母親の言葉は,娘の反応で,その一義に焦点が当たり,それが図として浮かぶことになり,それが会話の流れ,両者の関係を規定していくる。
で,ベイトソンは,
コンテクストをつくっているのは,受け手である,
という。つまり,二人のコミュニケーションで二人の関係を作り出していく,
というのである。
言葉が現実を作る,ということは,たとえば,ウィドケンシュタインが,
ひとは持っている言葉によって,見える世界が違う,
という意味では,よく分かる。ただ,この場合,ベイトソンが言っていたのは,違う意味ではないか,という気がしないでもない。
僕も,別の側面で,(口幅ったいが)結構ベイトソンの影響を受けているが,僕がいつも使う例でいうと,ベイトソンが,学生にした次の質問がある。
「幼い息子がホウレン草を食べるたびにご褒美としてアイスクリームを与える母親がいる。この子供が,
①ホウレン草を好きになるか嫌いになるか,
②アイスクリームを好きになるか嫌いになるか,
③母親を好きになるか嫌いになるか,
の予測が立つためにはほかにどんな情報が必要か。
ここで,ベイトソンが言おうとしているのは,二人の関係である。それを,コンテクストと呼んでいる。つまり,会話が二人の関係を作るのは,その前に,二人の関係性があるから,そういうコミュニケーションになるのではないか。
いつも娘を気遣う母親が,
「また今日も帰りは遅いの」
と言ったとすれば,
「11時位」
と答えたのに,
「雨が降るから,傘を持っていったら」
と,母親が言うだろう。
つまり,コミュニケーションの関係性は,二人の文脈に依存しているのではないか,つまり,二人が喧嘩関係にあるか,親和関係にあるか,ニュートラル関係にあるかで,娘の次の返事は,それを反映したものになる。だから,結果として,それに応じて母親が反応する,というように。
むしろ,コミュニケーションは,両者の文脈に依存する,という方が正しい。
だから,アイスクリームの例で言うなら,必要な情報は,両者の関係を確かめる情報ということになる(そのことで,母親はほうれんそうを食べることはカラダにいいことだと思っており,娘は,アイスクリームが食べられるならほうれんそうを食べるのも悪くない,と思っているのかもしれない,という両者の現実の捉え方がはっきりするということになるかもしれない)。
ところで,こうした考え方は社会構成主義につながるわけだが,社会構成主義では,
「現実」とは,人々の〈相互行為―コミュニケーション―言語的共同作業〉において構成されているものである,
とし,
「事実」は,常にわれわれ個々にとっての「意味」を伴った「現実」として経験される。しかも,それは個々の勝手な意味賦与ではなく,常に相互的なもの,relationalなものである。
だとすれば,「現実」を理解するということは,その「本質」を捉えるということではなく,「現実」が人々の間でどのように構成されているか,を明らかにすることである。
と考える。つまり,人間同士が関わり合うことで現実が構成される。で,
①私たちが世界や自己を理解するために用いる言葉は「事実」によって規定されない
②記述や説明,そしてあらゆる表現の形式は,人々の関係から意味を与えられる
③私たちは,何かを記述したり説明したり,あるいは別の方法で表現したりするとき,同時に,自分たちの未来をも創造している
④自分たちの理解のあり方については反省(省察)することが,明るい未来にとって不可欠である,
という社会構成主義の4つのテーゼにつながる。
だから,
そして歴史の「真実」や「事実」が実在するのではなく,ただ特定の視角からの問題化による再構成された「現実」があるだけである。
という考え方になる。まあ,物語に過ぎない,というわけだ。違う言い方をすると,仮説にすぎない。
個々の出来事,ひとつひとつの記憶は,ある物語のなかで解釈されてはじめて初めて意味をもつ。つまり出来事は,初めと終わりをもつ物語のなかにおかれることで,意味の体系性が与えられ,物語にそぐわない出来事は無視され,排除される。
それを整理すると,こうなる。
●現実は言葉によって構成される
●言語は物語によって組織化される
言語によって物語を形づくると同時に,常にストーリー=コンテクストを背景として意味を与えられる。
現実のコンテクストによって,物語のコンテクストが形づくられ,その物語というコンテクストで,意味が与えられる,そうやって現実を解釈する。ただ現実のコンテクストというのが,我々を縛る,正義であったり,世の中の当たり前であったり,常識であったり,良識であったり,正統であったりする。それに縛られた物語は,我々を拘束する。
それを含めて,レジュメにある,上野千鶴子氏の言葉がわかりやすい。
実在があるかないか,という罠のような問いに変わって,実在はカテゴリーを介してのみ認識の中に立ち現れる,カテゴリー以前的な「実在そのもの」にわたしたちは到達することができない,とヴィトゲンシュタインに倣って答えておけば足りる
だから,拘束されている物語を語り直すことで,あらたに物語を書き直し,自分の人生を語り直すことができる,そこにナラティヴ・アプローチ(ナラティヴ・セラピー)の意味があるのだ,と受け止めた。
ナラティヴ・アプローチについては,次に書く。
参考文献;
グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』(思索社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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