参加した第66回ブリーフ・セラピー研究会 定例研究会「ナラティヴ・アプローチ入門」の二回目。今回は,ナラティヴ・アプローチの考え方をまとめてみる。頭の整理のつもり。
ナラティヴ・アプローチ(ナラティヴ・セラピー)には,3つの立脚点がある。
第一は,脱構築としてのセラピー。
第二は,会話としてのセラピー
第三は,専門職倫理としてのセラピー
その第一立脚点は,脱構築としてのセラピー。
現実は言葉で語られて,物語によって組織化される。
しかし,物語は語られることで完結するのではなく,誰かに聞かれたり,読まれることで成立する。受け手が必要なのである。そのナラティヴを通して,相互作用の中でカタチになっていく。そのように向き合うのが,ナラティヴ・セラピーということになる。
つまり,
人が生き,悩む世界・人生・自己も,その人の語る物語によって,生み出され,維持されている。したがって,問題もその中で構成されているので,その物語を語り直し,書き換えることで,問題は解消される。
という考え方である。
このことは,ロジャーズが,共感性や受容といった背景が,あくまでクライアントの現象学的(あくまで本人の見ている)現実に寄り添うという感じだったのと,僕は基本的には変わらないと思う。もちろん物語りを書き換えるというのは,ロジャーズの志向にはなかったかもしれないが。
たとえば,何をやってもうまくいかないダメな私というストーリーをつなぐのは,失敗エピソードをプロット(筋立て)してつないだ物語になる。
それをドミナント・ストーリーと呼ぶとすると,書き換えた物語は,オルタナティヴ・ストーリーということになる。オルタナティヴ・ストーリーは無数にある。
このドミナント・ストーリーという中には,社会のドミナントな物語,たとえば,
謙譲で,しっかり働き,がっつり稼ぐ,
ポジティブなものが成功する,
夢はイメージするだけで実現する,
どんなに苦しくても辛抱しなくてはならない,,
等々という人が立派な人間である,というドミナントも含まれている。ナラティヴ・アプローチの特色は,そのドミナントな物語の周辺の人々(傷害者,病人,等々の弱者)が,そういうドミナントの前で,
自分が価値がない,と自己非難してしまい,自分の物語を語りにくくなっていく,
というマイノリティの行動と意味を語り直そうとするところに,ホワイトらの問題意識に出発点があるところだ。この点が,ソリューション・フォーカスト・アプローチとは違う独自の思想とみていい。
これがナラティヴのナラティヴらしいところ,
と講師が強調した所以なのだと思う。効果だけ認知行動療法と変わらないが,問題を,
不適応
とみて,どう適応させるかとする志向は,ドミナントに適か不適か,と見ている限り,ナラティヴの発想とは相いれない,ということのようだ。
ところで,語り直す場合,同じエピソードでも意味づけを変えたり(リフレーム),別のエピソードとつないだりすることになるが,これは,フィルムの編集に似ているように思う。
たとえば,映画のモンタージュ手法を例にとってみる。
「一秒間に二四コマ」の映画フィルムは,それ自体は静止している一コマ毎の画像に,人間や物体が分解されたものである。この一コマ一コマのフィルムの断片群には,クローズアップ(大写し),ロングショット(遠写),バスト(半身),フル(全身)等々,ショットもサイズも異にした画像が写されている。それぞれの画像は,一眼レフのネガフィルムと同様,部分的・非連続的である。ひとつひとつの画像は,その対象をどう分析しどうとらえようとしたかという,監督のものの見方を表している。それらを構成し直す(モンタージュ)のが映画の編集である。つなぎ変え,並べ換えることによって,画像が新しい見え方をもたらすことになる。
たとえば,陳腐な例だが,男女の会話の場面で,男の怒鳴っているカットにつなげて,女性のうなだれているカットを接続すると,一カットずつの意味とは別に男に怒鳴られている女性というシーンになる。しかし,この両者のつなぎ方を変え,仏壇のカットを間に入れると,怒鳴っている男は想い出のシーンに変わり,それを思い出しているのが女性というシーンに変わってしまう。あるいはアップした男の怒った表情に,しおたれた花のカットを挿入すれば,うなだれている女性をそう受け止めている男の心象というふうに変わる。その後に薄ら笑いを浮かべた女性のアップをつなげれば,男の思い込みとは食い違った現実を際立たせることになる。
ともかく,こうしたつなぎ方,組み合わせによっても,ストーリーの意味が変わる。
そのオルタナティヴ・ストーリーを書き直していくために使うのが,
問題の外在化
と
ユニークな結果
である。
問題の外在化は,ここに由来して,さまざまなところで使われているスキルだが,基本は,
M・ホワイトの,
問題が問題なのであって,人や人間関係が問題なのではない,
とする,人を非難しないアプローチである。
問題があるダメな私,
から,
問題に影響を受けている私,
問題を観察する私,
問題に取り組む私,
と問題と人を切り離し,その人の効力感,つまりは問題をコントロールする自分を取り戻すことだ。これは,エリクソンが,様々な例で実践していたことに通ずる。
ユニークな結果は,ソリューション・フォーカスト・アプローチで言う,例外探しである。
問題が起こらなかった私,
問題が少なかった私,
うまく対処できた私,
を,ソリューション・フォーカスト・アプローチのように,意識的に探すのではなく,物語を語る中で,自然に出てくるのをまつのが特色かもしれない。
そういえば,どこかでV・E・フランクルが,確か,
どんな人も,語りたい自分の物語を持っている,
といったのは,それを誰かに聞いてもらわなければ,その物語は完結しないという意味だったのかもしれない。
どんな人も,自分の物語を持っている。誰もがそれを,聞いてもらいたがっている,
ということか。
第二の立脚点は,会話としてのセラピー
レジュメに,
現実が我々から離れて「客観的」にあるわけではなく,それはことばによるやりとり(=会話)の中で生み出されてくるものだ。問題をめぐる会話の中で問題が作り出されるのであり,その逆ではない。セラピーとは,問題の解決を目指し,それが実現されるような会話である。
とある。そのためには,ソリューション・フォーカスト・アプローチでいう,
無知の姿勢(not knowing)
つまり,
私は,あなたの人生,生活について,何も知りません。自身についての専門家であるあなたから教えてください,
という学ぶ姿勢である。それは,
・相手に対して語るのではなく,相手と共に語る
・理解の途上にとどまり続ける,
・ローカルな言葉の使用(相手の言葉を大事にしていく),
・説明,解釈をしない,
・相手を分かりきる事はできない,
である。
第二の立脚点は,専門職倫理としてのナラティヴ・セラピー
支援という行為,活動ないしその関係が持つ政治性についての自覚,
ということにシビアなのだと思う。ともすれば,上から目線になることを,できるだけ排除しようとし,
・私が何者であるかの自己定義権は,本人にある
・透明性 本人に隠さない
・アカウンタビリティ やろうとすることを相手に説明できる(MRIのパラドックスは説明したら使えないが)
・対等性
・多声性 多くの人が読める
・支援が支援者に与えた影響を伝える
つまり,これらは,両者の関係をどうすれば対等で,協働関係をもてるか,きめ細かく配慮し実現しょうとしていると見える。
この背景にあるのは,
問題を個人の中に置かない,
あるいは,
個人のせいにしない,
という徹底した社会的コンテクストを考慮する姿勢といっていい。たとえば,こうクライアントに言われたとしよう。
私は1年で会社を辞めました,
それに対する,支援者の姿勢が問われている。
忍耐力のない奴,
と見るか,
そうさせる社会的背景を考えようとするか,
いずれにしても,その瞬間,自分が社会的ドミナントに立っていることに,意識的かどうかが問われる。これが,ロジャーズの言う,
自己一致,
の応用編であることは疑いない。やはり,問われている,
受容,
共感性,
自己一致,
を。そして,ナラティヴは,それをセラピスト側がクライアントに透明に語ることを求めている。でなければ,
セラピスト-クライアント関係は,
対等ではないし,協働して物語を作っていることにはならない,と考えている。
参考文献;
瓜生忠夫『新版モンタージュ考』(時事通信社)
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