2013年12月10日

実像



諏訪勝則『黒田官兵衛』をよむ。

来年の大河の主役のため,官兵衛本が相次いで出されている。順次見ていくが,これが二冊目。どこに焦点をあてるかで,結構差が出る。すでに,一冊,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11327874.html

で触れたが,そこでは,来歴というか系図について結構力を入れていた。しかし,本書は,武人としての官兵衛以外に,

キリシタンであり,

茶人であり,

歌人である,

官兵衛の姿に焦点をあてているのが特色かもしれない。

一般には,太閤記などのせいもあり,軍師というイメージが強く,その線で,司馬遼太郎『播磨灘物語』も,吉川英治『黒田如水』も描かれている。その典型は,江戸時代の『常山紀談』のある,官兵衛が,息子長政に語った,こういうエピソードだろう。

我は無双の博打の上手なり。関ヶ原にて,石田今しばらく支へたらば,筑紫より攻登り下部のいふ勝相撲に入りて,日本を掌のなかに握んと思ひたりき。其時は,子たる汝をもすてて一ばくちうたんとおもひぞかし。

しかし実際には家康の許可を取り,逐次自分の動きを家康に明確に示し疑われる行動は巧みに避けている。このあたりが実像だ。だから,江戸時代の『故郷物語』で,長政が凱旋して,中津城で手柄話をした折,家康は私の手を握り,三度抱擁してくれたと官兵衛に話した。その時,官兵衛は,冷ややかに,

左の手か,それとも右の手かと尋ねた。長政は右の手であると答えた。官兵衛は,左の手は何をしていたのか,と再び質問した。左手で家康を刺し殺すこともできたものを,との含意だ…

というのだが,この辺りは,「作り話」に過ぎない。著者は言う。

数々の武功からすると,官兵衛は非常に細心で堅実で,秀吉への連絡を怠らなかった。戦況を逐次報告し,秀吉の意向を確認し,判断を仰いだ。秀吉の没後は,家康を始めとする徳川陣営の人々と緊密に連絡を取った。これにより徳川方であることを明確に示し,三成陣営にも通じているのではないかと疑われるのを防いでいる。

と。そして,むしろ,

官兵衛はきわめて誠実な人物であった。

そのことは,小田原合戦で北条方との交渉役をつとめ,北条氏直に開城を決意させる。その折,氏直から,『吾妻鑑』と日光一文字の刀など三点を贈られている。また関ヶ原合戦後,吉川広家との盟約を着実に履行し,最後の最後まで毛利一族を見捨てなかった。さらに,さかのぼれば,荒木村重の籠る有岡城に幽閉された際,家臣たちが起請文を作成した事例等々が示すように,家臣からも大変慕われていた。

だから,著者は,

官兵衛なくして秀吉の天下統一は完遂できなかったといっても過言ではない。ただし,ここで注意しなくてはならないのは,官兵衛は秀吉の家臣団の中では随一といってよい名将だが,政権の中枢にあったわけではないことである。…「内々の儀」は千利休が,「公儀の事」は豊臣秀長が取り仕切っていた。秀長・利休の没後は,石田三成らが台頭した。官兵衛の存在をあまり過大評価するのは間違いである。

と。文化人としての官兵衛に焦点をあてているのが,本書の特徴だが,まずは,

官兵衛は高山右近・蒲生氏郷の勧めにより入信し,…秀吉の家臣たちに改宗を促したことが知られている。

洗礼名はシメオン。ルイス・フロイスの年報では,

小寺官兵衛殿Comdera Cambioyedono

とあり,官兵衛の読みが,「かんべえ」ではなく「かんびょうえ」であるとわかる。官兵衛は,死ぬまでキリシタンであり,葬儀も,自領の博多の教会で,キリスト教式で行われた。

茶の湯については,秀吉が重視していて,秀吉家臣団の多くも親しんだ。はじめ,官兵衛は武将が好む者ではないと,考えていたようだが,小田原合戦時,陣中で秀吉に招かれて,渋々茶室に入った逸話が残っている。

秀吉は茶を点てる様子もなく,もっぱら戦の密談を続け,数刻が過ぎた。秀吉が官兵衛に語るには「これが茶の湯の一徳というものだ。もし茶室以外の場所で密談をかわしたならば,人から疑いをかけられる。茶室で話せば剣技が生ずることはない」。

これを聞いて感服して,官兵衛は茶の道に入った,という。

茶席では様々な教養が要求されることはいうまでもない。たとえば,床の間に墨跡がかかっていた場合,その書を読むことができ,その内容を理解することが必要である。官兵衛は幼少の頃から培ってきた学問的な素養を十分に生かして茶席に臨んで行ったのである。

連歌については,連歌会の歌がいくつも残っているが,挑戦出陣に際して,細川幽斎から,歌学に関する書籍を贈られている。

中央歌壇の最高権威者である細川幽斎から,

『堀河院百首』(幽斎が書写したもの)
『新古今集聞書』(幽斎が書写。巻末に,今如水此の道に執心を感じ,之を進呈する,と記されている。)
『連歌新式』

書籍を贈られたのは,官兵衛が本格的に連歌に取り組んでいることを示している。この三年後には,官兵衛は,一人で連歌百韻を詠じている。

こうみると官兵衛は,武将として確かに優れているが,世に言われる野心家というよりは篤実な性格なのではないか。文禄の役で,朝鮮にて,死を覚悟して,長政に遺した家訓がある。

1.官兵衛の所領が上様(秀吉)に没収されなかったならば,現在仕えている家臣たちに,書面に記したように渡すように。
2.もしその方(長政)に子供ができなかった場合,松寿(官兵衛の甥)を跡取りとするように。もし,器量がない場合,松寿は申すに及ばず実子であっても不適格である
3.家臣たちに対しては,前々から仕えているものをしっかり取り立ててゆくことが大切である
4.諸事,自分の想い描いた通に事が運ぶとは限らない。堪忍の心がけが必要である
5.親類・被官には慈悲の心を持ち,母には孝行するように
6.上様・関白様(秀次)のことを大事にしていれば神に祈ることもない

どうだろう,戦国時代を誠実に戦いきった人間の,一種の透明な心映えが見える。

官兵衛も結構失敗し,秀吉の勘気を蒙っている。しかし,肥後の領国支配に失敗した佐々成政は切腹,戸次川合戦で敗戦した仙石秀久は改易された。しかし官兵衛は,同時期領国支配でも佐々と同じ一揆をおこされ,島津攻めでも失敗しているが,不思議と,秀吉から見逃されている。それは,誠実に,粘り強く対処して,貢献してきた官兵衛の力量を,秀吉は必要としていたからではないか。

参考文献;
諏訪勝則『黒田官兵衛』(中公新書)

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http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




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posted by Toshi at 06:27| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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