2013年12月13日
プロパガンダ
跡部蛮『秀吉ではなく家康を「天下人」にした黒田官兵衛』を読む。
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11327874.html
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11386475.html
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11388160.html
に続いて,泥鰌本の4冊目。もうこれで打ち止めにする。新書版とはいえ,いい加減な物語を語るのはやめてほしい。確かに,どこに焦点をあてるかによって,図は変わるとはいえ,こうそれぞれが勝手読みをするのを歴史と言ったら,カーが嗤うに違いない。
こう言うのは,版元を見て判断する,というのが僕の基準だが,それは当たっている,といっていい。
さて,本書は,小和田哲男『黒田如水』から学んだということばが,プロローグに載せられているが,その小和田氏の,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11388160.html
とは,真逆の結論からスタートしている。といっても,中身は,それに近いのが笑えるが。著者はこう書く,
「豊臣秀吉を天下人にした稀代の軍師」という通説的理解に疑問を抱く一人だが,秀吉死後,官兵衛とその嫡男・長政の父子は,家康の天下取りに大きく貢献し,関ヶ原の合戦後,家康から,「御粉骨御手柄ともに比類なく候。いま天下平均の儀,誠に御忠節ゆえと存じ候」という賛辞をたまわる。
と。しかし,これは,社長が功労者に言うセリフであって,だからといって,
豊臣秀吉を天下人にした稀代の軍師,
から,
家康を「天下人」にした黒田官兵衛,
と入れ替わる根拠とも思えない。ただ仕える主人を変えただけだ。どこに焦点をあてるかで,変わることには,著者自身が気づいているらしく,さんざん官兵衛を持ち上げた挙句,あとがきではこう書く。
秀吉の天下がほぼ定まった同(天正)十三年頃,官兵衛はキリスト教に入信するが,このころ宣教師ルイス・フロイスが『日本史』に書き残した言葉が,世間が官兵衛をどう評していたか如実に表しているように思う。
「関白の顧問を務める一人の貴人がいた。彼は優れた才能の持ち主であり,それがために万人の尊敬を集めていた。関白と山口の国主(毛利輝元)との間の和平は,この人物を通して成立した…」
このことから,こう逆に推測する。
官兵衛の事績として知られるのは毛利との交渉だけという見方もできる。実際に福岡藩の正史である『黒田家譜』を除くと,一級史料で彼が秀吉の天下統一に獅子奮迅の活躍をしたという事実や評価は見られない。
つまり,後世の彼の評価と当時の現実とは大きな落差がある。これを,著者は,こう言う。
官兵衛を実像以上の存在に見せようとしたプロデューサーがいたと考える。ほかならぬ秀吉である。
そして,こう説明を加えていく。
秀吉の官兵衛評については『家譜』に掲載される次の話が有名だ。あるとき秀吉はふざけて近臣の者に,自分が死んだら誰が天下を給ったらよいかを問い質してみた。誰もが家康や前田利家,毛利輝元ら大身の大名の名前ばかり挙げた。そこで秀吉は,「汝ら知らずや」,つまりおまえたち誰もわからないのかといい,「黒田如水なり」として,官兵衛の名を挙げたという。『家譜』は,だからこそ秀吉は官兵衛に大国を与えなかったのだといい,一般的にもそう理解される場合が多い。しかし,この手の話が後世まで語り継がれる要因のひとつは,秀吉得意のプロパガンダの結果であったと考えた方が理解しやすい。
なぜなら,
下層階級出身の秀吉には譜代の臣はおらず,世に名前の通った家臣もいない。だからこそ秀吉は,彼自身がプロデューサーになって自分の配下の者を世に売り出そうとした。
と。そういえば,賤ヶ岳の七本槍(本当は,『柴田退治記』では9人だったようだが)でいう,
福島正則
加藤清正
加藤嘉明
脇坂安治
平野長泰
糟屋武則
片桐且元
等々もその例だし,
中国大返し
美濃大返し
という命名もまた,その例だろう。
事実,秀吉は,祐筆となり,側近だった大村由己に,
『天正記』
『播磨別所記』
『惟任退治記』
『柴田退治記』
『関白任官記』
『聚楽行幸記』
『金賦之記』
と次々に,ほぼ同時進行で,軍記を書かせているが,それにも目を通し,口も出している。あの『信長公記』の太田牛一にも,『大かうさまくんきのうち』『太閤軍記』を書かせている。
当時の軍記物は,皆の前で詠み聞かせる。直後にこうやって物語を読み聞かせ,宣伝していくのである。戰さの直後に,こう読み聞かされれば,そこに載りたいという動機が生まれてもおかしくない。現実と,同時進行で歴史を創り出そうとしていた,と言えなくもない。信じたかどうかは別に,自分の出自についても,
御落胤説
まで物語にしようとする,秀吉である。
こう考えると,実は,あとがきの,この焦点の当て方の方が,本文よりはるかに面白い。が,この説を図として,展開すると,実は官兵衛を主役とする本書には都合が悪く,秀吉の類い稀なプロデュース能力だけが際立ってしまう。
だから,著者が,
官兵衛は秀吉を恐れ,その官兵衛を家康が恐れた。
等々というのは,たわごとにしか見えない。官兵衛は,絶えずその時の仕えるべき相手である秀吉や家康に,疑われないよう,慎重に連絡し,許可を得て動いている。所詮,
秀吉あっての官兵衛であり,家康あっての官兵衛である。
そこを見間違えては,官兵衛像は虚像に過ぎない。
参考文献;
跡部蛮『秀吉ではなく家康を「天下人」にした黒田官兵衛』(双葉新書)
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