先日,異世代交流会で,金春流能楽師山井綱雄さんの話を聞き,若干舞を拝見する機会を得た。

長く誤解していたが,信長が,

人間五十年,化天のうちを比ぶれば,夢幻の如くなり
一度生を享け,滅せぬもののあるべきか

と,『信長公記』に曰く,

此時,信長敦盛の舞を遊ばし候。人間五十年 下天の内をくらぶれば,夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか,と候て,螺ふけ,具足よこせと仰せられ,御物具召され,たちながら御食をまいり,御甲めし候ひて御出陣なさる,

と,桶狭間の戦い前夜,今川義元軍の尾張侵攻を聞き,清洲城の信長は,まず「敦盛」のこの一節を謡い舞い,陣貝を吹かせた上で具足を着け,立ったまま湯漬を食したあと甲冑を着けて出陣したという一節が,特に49歳で本能寺で死んだことと重なって,

「人の世の50年の歳月は,下天の一日にしかあたらない」

と,一層印象深いが,これを能の敦盛と勘違いしていた。

だから,秀吉が,賤ヶ岳の合戦で勝利し,姫路へ凱旋,帰城した時,上機嫌で,敦盛を舞ったというのを,勝手に信長の真似と捉えていた。

しかし,信長のは,正しくは,幸若舞であり,今は伝承が途絶えているので,詳しくはわからないという。

ウィキペディアには,

幸若舞は,室町時代に流行した語りを伴う曲舞の一種。福岡県みやま市瀬高町大江に伝わる重要無形民俗文化財(1976年指定)の民俗芸能として現存している。能や歌舞伎の原型といわれ,700年の伝統を持ち,毎年1月20日に大江天満神社で奉納される,

明治維新後,禄を離れた各地の幸若舞はその舞を捨ててしまい,この大頭流の大江幸若舞のみが現在に伝わっている。大江の地に受け継がれてから,2009年現在で222年の伝統がある,

とある。ということは,能と秀吉のつながりは,信長とは関係ない。

ウィキペディアには,

金春安照(六十二世宗家)に秀吉が師事したために,金春流は公的な催能の際には中心的な役割を果たし,政権公認の流儀として各地の武将たちにもてはやされることとなった。秀吉作のいわゆる「太閤能」も安照らによって型付されたものである。安照は小柄で醜貌と恵まれない外見だったと伝えられるが,重厚な芸風によって能界を圧倒し,大量の芸論や型付を書残すなど,当時を代表する太夫の一人であった,

とあるが,秀吉は,シテとして,舞台に上がった武将の嚆矢とされる。特に金春流とは深くつながった。ただ,

江戸幕府開府後も,金春流はその勢力を認められて四座のなかでは観世流に次ぐ第二位とされたものの,豊臣家とあまりに親密であったことが災いし,流派は停滞期に入ってゆく。その一方で観世流は徳川家康が,喜多流は徳川秀忠が,宝生流は徳川綱吉が愛好し,その影響によって各地の大名のあいだで流行していった。

とされている。ただ,他の流派は,観阿弥・世阿弥の時代を始祖とするのに対して,金春流は,

伝説の上では聖徳太子に近侍した秦河勝を初世としているが,実質的には室町時代前期に奈良春日大社・興福寺に奉仕した猿楽大和四座の一,円満井座に端を発する,

という古い歴史を誇る。秀吉がどうして能に,特に金春流にはまったのかは,わからないところがあるが,

http://www.the-noh.com/jp/trivia/104.html

には,

彼は自分の業績を新作能として作らせました。それが,「豊公能」と呼ばれる作品群です。

「豊公能」は,秀吉58歳のころに作られたと言われています。当初は十番能だったと見られていますが,謡本で伝わっているものでは,「吉野詣」「高野参詣」「明智討」「柴田」「北條」の五番が有名です(近年,「この花」という曲が発見されました)。「吉野詣」は,吉野に参詣した秀吉に蔵王権現が現れ,秀吉の治世を寿ぐ,というもの。「高野参詣」は,母大政所の三回忌に高野に詣でた秀吉に,大政所の亡霊が現れて秀吉の孝行を称えるというもの。「明智討」「柴田」「北條」は,秀吉の戦功を称えたものです。

秀吉は,これらを宮中に献上し,また,ほぼすべてを自ら舞ったようです。能を愛好した権力者は,足利義満,徳川綱吉ほか,数多くいます。しかし自身の生涯を能に仕立て,あまつさえ舞った人はほかに見当たりません。豊臣秀吉の能への耽溺ぶりがうかがえます。

とある。

秀吉は,セルフブランディングの名人なのである。

祐筆の大村由己に,

『天正記』
『播磨別所記』
『惟任退治記』
『柴田退治記』
『関白任官記』
『聚楽行幸記』
『金賦之記』

と次々に,ほぼ同時進行で,自分の戦さの軍記を書かせている。しかも当時の軍記物は,旗下の武将たちの前で詠むのである。それは,自分の事績の宣伝に他ならない。

自分の出生も,御落胤説を語りだすなど,自己を演出するのに,余念のない秀吉のことだ。能の,あのきらびやかな舞台に,もう一つの,しかも自分が主役を演じられる格好の手段を手に入れた心地なのではないか。

自分の歴史を,自分で舞って,表現する,

得意絶頂の秀吉が目に浮かぶ。

秀吉は世阿弥ふうのいかにも優美な曲を好んだ,

とのことだが,天下人が,能に肩入れしたことの効果は波及的だ。

衰退していた興福寺での薪能や春日若宮祭での催能を復活させたり,大和猿楽四座に対して継続的に配当米を支給して保護したり,

と,影響が及び,

その保護政策は徳川幕府にも継承されて,能楽の古典劇化,式楽化が進んだ,

とされている。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





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