2013年12月20日
諦める
諦めるは,
思いきる,
仕方がないと断念したり,悪い状態を受け入れたりする,
それまで続いていたものを終わりにすること,
といった意味が辞書にある。しかし,この「諦める」は,「明らむ」の,「明るくなる」という意味以外の,
物事を見きわめる,
物事が明らかになる,
確かめられる,
という意味からきているという。
ということは,諦めると決めたとき,どっちにしろ,(それが正確かどうかは別にして)自分なりに見積もっている,ということになる。
多く,諦めるとき,
自分を小さく見積もり,相手(対象)を大きく見積もる,
諦めないときは,
自分の力量を大きく見積もり,相手(対象)を小さく見積もる,
と言えそうだが,実は,相手がどうあろうと,自分がどうあろうと,自分の続けたい意志,思いを捨て兼ねたというのが近い。
いい例かどうかわからないが,二年ほど前,初マラソンで,青梅マラソンにチャレンジしたことがある。始めてたぶん三ヵ月か四ヵ月で,正直無謀とは思ったが,とにかく走り出した。ただ,後ろからなので,スタート地点に立つまでに,15分か20分を要した。で,まあうしろのほうから,のろのろ走ったのだが,15キロ手前で,あと10分と言われたのだが,折り返しが目前のところで,右手に15キロの関門が見え,折り返しから,そこまで,2,300mくらい,その時点で鐘が鳴っていて,無理と諦めてしまった。足が痛いのが,その後押しをした。
しかし,だ。途中でリタイアしたことより,15キロまで走って,そこで時間切れと言われたのならまだしも,その手前で,断念したことを,今もずっと悔いている。
つまり,そこで諦めたのだが,その見積もりは,残りの距離に比して,脚を引きずるようにしていた,自分の残り体力を対比して断念したことが,早まった諦めだと,ずっと尾を引いている。
潔さというのは,ある意味,自分を捨てることなのではないか,という気がしてならない。
あるところで,池田屋で新選組に襲撃され,割腹した宮部鼎蔵を,
池田屋で逃れられるものを逃れず,あっさり諦めるような潔さを,士道と呼ばぬ,
といった人がいる。僕も同感である。そこで逃げずに割腹するのは潔いかもしれぬ,しかし,それは,おのれを安く見積もりすぎではないか。おのれの志と,思いは,それほど安っぽいものなのか,と思う。
多く士道を,
暴虎馮河し死して悔いなき者,
と勘違いしている向きがある。僕は士道とは,腕(ぷし)ではなく,心だと思う。思いだと思う。志だと思う。
そこであっさり投げ出す程度の志なのか,
ということだ。あるいは,西郷の言ったとされる,
命もいらず,名もいらず,官位も金もいらぬ人は,始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは,艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり,
も,『論語』の孔子の言葉とは微妙にずれる。子曰く,
暴虎馮河し,死して悔いなき者は,吾与にせざるなり。必ずや事に臨みて懼れ,謀を好みて成さん者なり,
と。必ずや事に臨みて懼れ,
その実現のために,おのれの命を安売りしないもののことだ。臥薪嘗胆といってもいい。
僕のマラソンはさほどの志ではないが,
諦めてはいけないことを諦めた,
諦めるべきでないところで諦めた,
という悔いがある。志があるなら,地を這っても,赤恥をかいても,生きのびねばならない。
死生,命あり,
である。おのれの天命を自ら断つのは,非命である。
おのれの命を安く見積もってはいけない,それはおのれの想いを貶め,おのれ自身を卑しめることだ,まして,それを士道とは呼んではならない。
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