2013年12月23日
片思い
どうも,ずっと片思いが続いているような気がする。
もちろん恋愛のそれも含めて,自分の思いが届かないことを指している。
思いが相手に届くことで,
共通の土俵に乗れるかもしれないし,
(清水博さんの言う「自己の卵モデル」黄身と黄身の混じり合った)共通の場ができるかもしれない。
しかし,それが叶わないことで,自分には自分の可能性を削いでいるような感じがする。しかし,たとえば,恋愛なら,自分が,相手を好きだ,と言ったところで,相手は,
Noというかもしれないし,
無視するかもしれないし,
聞かなかったことにするかもしれないし,
嘲笑されるかもしれないし,
話をそらすかもしれない,
のと同じで,そうそう思いが叶うとは限らない。自分のボスである自分自身ですら,自分をコントロールできないのに,ボスでもない相手をコントロールできるはずはない。そこに,不安や恐れが出る。
ためらいは,
自分の防御であり,
自分の安全であり,
相手への忖度であり,
相手への遠慮である,
ある意味では,自分を守ることである。そこにあるのは,その思いが,所詮,自分のものではあっても,相手のではないからかもしれない。だから,思いが届かないのではなく,思いを届けるのを怠っている。あるいは,思いを届けるのをサボっている。
では,その思いは小さいのか。
いや,思いが小さいか大きいか,ではなく,自分に切実かどうかではないか。
それは,仮にどんな思いであっても,たとえば,
クライアントとしてコーチへのフィードバックであっても,
オブザーバーとして,コーチへのフィードバックであっても,
友人への忠告であっても,
知人へのアドバイスであっても,
何かを一緒にしようという誘いであっても,
危惧を分かち合おうとすることでも,
その時言うべき(と思った)ことをきちんと伝えないと,結果として,切実ではないことになってしまう。
そこにあるのは,誠実さを欠いている,ということなのではないか。そこで開示しなければ,開示の結果は,それがマイナスであれ,プラスであれ,その果実を手に入れることはできない。
思えば,そういうことが多い。ということは,
出すもの(思い)を出さないことは,出されたものを受け取れない
ということではないか,と指摘された。というより,
自分の思いがきちんと出せないということは,相手の思いもきちんと受け取れない,
という自分の中での堂々巡りに陥っているのかもしれない。
相手に,ストレートに何かを伝えるということは,そのままストレートに返ってくることではないか。ということは,それができていない,あるいは,それができないのは,ある意味,
その場で,相手に対して,自分自身でいない,ということになる。ある意味,
自分でいられないということは,それが,
大きく見せるにしろ,
小さく見せるにしろ,
自分を等身大に見られない,
ということであり,裏返せば,
相手も等身大に見られない,
ということにつながると指摘された。自分ができない(しない)ことは,相手からもされない(してもらえない)ことに通ずる,と。
これは,思いのことではなく,自分の表現のことであり,自分の生き方のことでもある。
何処かで,自分を小さく見積もることで,切り抜けようとしているのかもしれない。小さい人間の思いは,小さくしか聞き届けてもらえない。
しかし,だ。
思いをストレートに伝える,
ということは,どんな思いにしろ,僕には,結構覚悟と勇気がいる。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#片思い
#思い
#等身大
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください