2013年12月24日

落語


先日,「らくごカフェ」へお邪魔して,柳家一琴師匠(僕の好きな柳家小三治のお弟子さん)の噺を二席うかがってきた。

師匠も言っておられたが,ネタのひとつが「文七元結(ぶんしち もっとい)」だったせいもあり,満員札止め,五十人,ぎゅうぎゅうづめであった。「文七」目当てに来ている通が結構いたらしいのである。師匠曰く,

文七ならだれの噺でもいい,

という客が。

御存じの方にとっては,「文七元結」は「芝浜」と並んで,暮の定番中の定番らしいが,ご存じの方にとっては,野暮かもしれないが,「文七元結」の概要は,

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E4%B8%83%E5%85%83%E7%B5%90

によると,

左官の長兵衛が,ばくちの負けがこんで,半纏一枚で賭場から帰ると,娘のお久がいなくなったと,女房のお兼が泣いている。そこへ世話になっている吉原の女郎屋の大店,角海老からの使いが,娘のお久が角海老の女将の所に身を寄せている,と知らせにくる。
女房の着物を一枚羽織って角海老へ行ってみると,お久は,父に改心してもらいたいと身売りをして,金の工面を頼んでいた。女将は,次の大晦日まで金を貸してやるが,大晦日を一日でも過ぎたら,女郎として店に出すという約束で,長兵衛に五十両の金を渡す。
その帰り道,吾妻橋にさしかかると,身投げをしようとしている男にでくわす。訳を聞くと,白銀町の鼈甲問屋「近江屋」の奉公人文七で,取りにいった売り上げ五十両をすられたので,死んでお詫びをしようという。死んでお詫びを,いや,死なせねぇと押し問答が続いた後,長兵衛は,お前の命が助かるのならと,無理矢理五十両を押し付けて帰ってゆく。
文七が主人卯兵衛の元に帰り,長兵衛からもらった金を差し出すと,お前が遣いにいった先に忘れてきてしまったものを,先方が既に届けてくれて金はここにある,一体どこからと,主人が問いただす。文七はことの顛末を白状する。
翌日,卯兵衛は文七をお供に長兵衛の長屋へと赴き,事の次第を説明し,五十両を長兵衛に返そうとするが,長兵衛は,江戸っ子が一度出したものを受け取れるかと受け取らない。もめた挙句に長兵衛ようやく受け取り,またこれがご縁ですので文七を養子に,近江屋とも親戚付き合いをと,祝いの盃を交わし,肴をと,表から呼び入れたのが,近江屋が身請けをしたお久。後に,文七とお久が夫婦になり,近江屋から暖簾を分けてもらい,元結いの店を開いたという。

というものだ。ツイッターで,若手の劇団でもやっているのを聞いたことがあるので,落語でなくても,ご存じのストーリーといっていい。

たまたま寄席よりは,小ぶりの場所で,しかも,ネタがネタなので,結構玄人というか,落語好きの人が集まっていて,勝手な想像だが,かつての寄席の雰囲気が醸し出されていた気がする。

僕は,昔,幼い頃,落語はラジオで聞いていた。それでも笑えたものだし,人の想像力は,すごいものだとつくづく思う。耳から入った会話と,地の文の説明とで,わからないながら,シチュエーションを想像して聞いていたものだ。

しかし後年,寄席で話を聞き,テレビで観ると,直かブラウン管越しかどうかは別に,噺家の姿,立ち居振る舞い,しぐさ,顔の向きを観て聞く者だと,改めて思ったものだ。

そして,今日気づいたのだが,落語は,

寄席,

という場でこそ,聴くものだと,つくづく思う。いまの寄席は,映画館のような席になっていたりするし,寄席の客の人数も多い。たまたま五十人というせいもあるが,

落語は場があって初めて,噺が生きる,

ということを感じだ。

噺家は,たとえば,「文七元結」というストーリーを,プロットは同じでも,場面のカットを様々に変えたり(あるところを強調したり,カットしたり)しながら,(映画フィルムのように)編集して,演出家として,どこに焦点を当て,どの人物を際立たせるか,その性格づけはどうするのか,どんなふるまいを際立たせるかといったことを,プランニングする。出演するのは,当然噺家一人,そのプランに従って演じ分けていく。

まあ,それが,腕のみせどころで,演者としての落語家に焦点が当たりがちだが,それだけだと,テレビでカメラを前に噺をするのと変わらない。落語は,ライブなのだ。だから,そこに,

観客が,

必要だ。しかも大ホールのような大勢ではなく,顔の見える五十人程度の場所で,

素人は素人なりに,

通は通なりに,

玄人は玄人なりに,

それぞれ反応の仕方が違う。その反応を見ながら,噺家は,即興で膨らませたり,しつこく繰り返したり,をする。それに観客がまた反応する。

その観客と噺家との,いわばキャッチボールが,

落語を,噺にするような気がする。

しかも,観客の反応は,たぶん客によって,微妙に違う。

その観客の反応の微妙な違いで,噺の細部が変わる。膨らませどころが変わる。それが,

そのとき,その場で,その観客だからこその,

一回性のものなのではないか。それがライブといった所以だ。

あるいは,噺家は,おなじみの客の顔を見ながら,
あるいは初めての客の反応を見ながら,
噺を展開していく。
その反応次第で,変わる。

五十人というのは,その意味でなかなか絶妙な人数なのではないか。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#らくごカフェ
#柳家一琴
#柳家小三治

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posted by Toshi at 05:28| Comment(0) | ライブ | 更新情報をチェックする
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