2013年12月25日

受け取る




このところ,

受け取ってください,

と強いられる(という感覚が僕にある)。たとえば,ひとに,

すごいですね,

と言われたとき,普通の感覚では,照れたり,いえいえ,と謙遜する。

しかし,コーチングやそれに関連するワークショップでは,相手の言葉(フィードバック)をきちんと受け取れないのは,いまの自分自身をきちんと認められないことだ,それは翻って(そう受け止めた)相手のいまを認めていないことだ,というふうにされることが多い。

ひとつの反応としては,

ありがとう,うれしいです,

と,その自分を受け入れることだろう。それが素直な反応だし,そうしないことがないこともない。それが相手と,そのとき,を一緒にいるという感覚なのだともわかっている。

だから,わからないでもないが,多く,そういうとき僕の中で起きているのは(相手の言葉にもよるが),

①単純な照れ
②その程度はという謙遜
③その程度ではそれに値しないという自尊
④あるプロセスにすぎない
⑤単純な違和感

といったものだ。①と②は,いい。

あえて言えば,②は,

自分は,まだまだそのレベルではありません,という自己像と絡んでくる。そうなると,③,④と関わる。

で,問題は,③。

自分の目指すレベルでは,その程度のことを褒められても,

という意味と,

それは自分の分野(関心)外なので,それを褒められても,

という二つの意味がある。

④は,大きな高みを目指しているプロセスに過ぎないので,このレベルで褒められても,

というニュアンスがある。③と似ていなくもないが,誉められている分野が登ろうとしている高みと一致するときは,こういう反応がある。

⑤は,誉められたり,認知されたり,承認されたりすること自体への違和感である。(不遜かもしれないが)いまの程度の僕の振る舞いで,何がわかるというのですか,そう簡単にわからないでほしい,という気持ちに近い。

その程度で,僕を測るな,という思いが強い。思い上がっているのではない。尊大な気持ちで言っているのでもない。

要は,③④⑤は,いずれも,こう言うと不遜に聞こえるかもしれないが,僕は自分では,高みを目指している。目指しているその途中のことは,ただの通りすがりの振る舞いでしかない。

だから,僕にはいまの瞬間は,僕の登り道のステップにしかすぎず,ハイデガーではないが,

人は死ぬまで可能性の中にある,

のだから,その一瞬のことは,そこで忘れている(終わっている),といってもいい。

一瞬前の自分については,気障な言い方だが,

そんな昔のことは覚えちゃいない,

という,『カサブランカ』のハンフリー・ボガートのセリフに似た心境なのだ。

第一,僕は,謙虚であることは,特に,人に対しては,自分をひけらかさないことは,大事な矜持であるとも思っている。それなくては,人として,信じられない。だから,自分を神とか宇宙人とかという類の人間は,ほとんどアホ,と思って軽蔑するタイプの人間である。そういう人間にとって,受け入れない,ということは,自分の生き方の価値とつながっている。

生意気ついでに,もう少し突っ込むと,仮に,

すばらしいふるまいでした,

という言葉を受け取るかどうかは,僕自身が決めることだ。とすれば,

「すばらしいふるまいでした」という承認を受け取ってもらえますか,

と,まず訊いてほしい。でなければ,丸ごと,

すばらしいふるまいでした,

という相手の承認(あるいは認知にしろ,賞賛にしろ,)は受け取るのが当たり前となる。その瞬間,押し付け感が(僕の中に)生ずるのではないか。

私には「すばらしいふるまい」に思えました。この言葉を受け取ってもらえますか,

と聞かれれば,受け取るとすれば,

ありがとうございます。そう言っていただいて大変うれしいです(あるいは恐縮です),

と言うか,

ありがとうございます。そうなれれば嬉しいです(そうなれるよう努力します),

と返事するだろう。これが受け止めるということだと思うのだが,こういう姿勢が結果として,おのれの孤独(孤立)を招くのなら,それも甘んじて受け入れよう。

なぜなら,僕は思うのだ,すごく大袈裟な言い方をするなら,

これは自由の問題と関わるような気がする。

人は基本,自由である,

と僕は思う。いや,もっとはっきり言って,

人は,自由でなければならない,

と思う。とすれば,ひとがどう率直に言葉を発しても,それを,受け止めるかどうかは,その人の自由であり,その自由を認めた上での発信でなければならない。

とすれば,多く,素直にそれを受け取れない人は,

人の言葉をきちんと受け止められない人,

とみなされ,人の言葉を真正面から受け止められない人とされることになるけれども,

しかし上記の背景を考えると,それはコミュニケーションについての考え方,あるいはもっと踏み込むと,人としてのあり方についての考えが,基本,違っているとしか言いようはないように見えてくる。

僕は,自分が,人が認知したり,承認したりするレベルを,あまり信じていないところがあるせいかもしれない。

僕には,

謙虚で,寡黙な人物像

が,僕にとっての理想なのだ。(僕の)現実(像)とのギャップはいささか大きすぎるにしても,僕は照れは美徳と考えている。照れない姿勢は僕には考えられない。ひととしての価値に関わってもいる。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11396602.html

でも書いたが,メラビアンの,

好意・反感など,態度や感情のコミュニケーションにおいて,感情や態度について矛盾したメッセージが発せられたとき,人の行動が相手に及ぼす影響は,

話の内容などの言語情報が7%,
口調や話の早さなどの聴覚情報が38%,
見た目などの視覚情報が55%

という。つまり,口に出さなくても,態度で現れている。態度で現れているものを念押しするように,言葉で言わなければならないような野暮を強いられている気がしてならない。

惻隠の情

というのがあるではないか。




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#ヴィトゲンシュタイン
#ハイデガー
#謙虚
#惻隠の情
#寡黙

posted by Toshi at 06:32| Comment(0) | コミュニケーション | 更新情報をチェックする
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