2013年12月27日
俯瞰
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕』を読む。
このところ立て続けに,
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を読んでみて,所詮歴史も物語とはいえ,官兵衛を図にすると,こうも,官兵衛が巨大になるのかということを実感させられた。まあ,眉に唾つけつつ読んだと言っても,官兵衛の秀吉旗下での位置づけがはっきりしない。そんなところに,本書が出た。まあ,泥鰌本と言えば言えるだろうが,官兵衛の配置図というか,ポジションをうかがわせるものになっている。
貧農の出から出発した秀吉は,一門,譜代の家臣を持たぬ,それこそ,今どきははやらぬのかもしれぬが,裸一貫から,天下人に駆け上がった。他の戦国武将が,小豪族から成り上がったにしろ,それなりに一門眷属をもっているのに,本当に眷属自体が少ない。
まず出発は,糟糠の妻,おねを得たところから,始まる。頼ったのは,おねの実家筋からである。
おねの父である杉原定利,おねの叔父にあたる杉原家次,おねの兄である木下家定,おねの姉ややの夫,浅野長政である。
木下姓自体が,おねのははの実家木下から貰い受けたと想定されているのである。
美濃攻めの功績で,歴史上,知行宛行状の添え書きに,
木下藤吉郎秀吉
の名が始めて登場する。この時期が創業期の家臣団になる。
一門衆として,杉原定次,木下家定,浅野長政,姉ともの夫,三好吉房,母なかの親戚,小出秀政
家臣として,蜂須賀正勝,前野長康,山内一豊,堀尾吉晴といった尾張衆,
となっていく。右腕になったのは,蜂須賀正勝である。ただこの時期は,信長から与力として,付属している状態なので,必ずしも秀吉の直臣ではない。
美濃攻略後,加わったのが,
生駒親正,加藤光泰,仙石秀久,竹中半兵衛といった美濃衆,である。同時にこの時期,秀吉は,幼若より身近に使えさせて,ひとかどの武将になっていくものを,育てようとしている。
第一世代が,神子田正治,尾藤知宣,戸田勝隆,宮田光次,
である。その後,第二世代に,福島正則,加藤清正,加藤嘉明ら,いわゆる賤ヶ岳の七本槍が登場する。
浅井長政を倒した後,秀吉は,初めて,北近江三郡の一国一城の主となる。そこで,浅井旧臣を取り込んで,急増していく。例えば,こんなふうだ。
一門衆 羽柴秀長,羽柴於次秀勝,杉原家次,浅野長政,木下家定,三好吉房
近江衆 宮部継潤,脇坂安治,寺沢広政,田中吉政,増田長盛,石田正継,石田三成,大谷吉継,片桐且元,中村一氏
尾張衆 蜂須賀正勝,前野長康,山内一豊,堀尾吉晴,桑山重晴,加藤清正,福島正則,加藤嘉明
美濃衆 竹中半兵衛,生駒親正,加藤光泰,仙石秀久,坪内利定,石川光政,佐藤秀方
播磨・摂津衆 黒田官兵衛,明石則実,別所重宗,小西行長,
腰母衣衆 古田重則,佐藤直清
黄母衣衆 尾藤知宣,神子田正治,大塩正貞,一柳直末,中西守之,一柳弥三右衛門,小野木重勝
大母衣衆 戸田勝隆,宮田光次,津田信任
初めて官兵衛が出てくる。中国攻めにおいて,官兵衛が活躍したことは間違いないが,本能寺の変後の大返し,賤ヶ岳の合戦では,『黒田家譜』や『太閤記』を除くと,官兵衛の活躍ははっきりしない。
歴史史料上は,秀吉が,秀長宛てに出した書状に,
砦周辺の小屋の撤去を,官兵衛や前野長康,木下定重に命じるように指示している,
というところがある。一方,三成は,近江衆の一員として,吏僚として活躍している。著者は言う。
賤ヶ岳の戦いにおける秀吉軍の勝利の背景には,陣城や防衛網の構築と,超スピードの大返しが大きな要因であった。情報の収集・分析能力,全体のプランニング,用意周到な準備と遂行能力が勝敗を決したという点では,賤ヶ岳の戦いは,高松城の攻城戦や中国大返しと同様の新しい合戦と言える。そして,それらを準備し実行したのが,三成や大谷吉継,増田長盛ら,近江衆を中心とした吏僚たちであり,中国戦線で鍛えられたかれらは,秀吉軍に不可欠な存在となっていたのだ。賤ヶ岳の戦いではどうやら帷幄の中心には官兵衛ではなく,三成がいたようなのである。
と。戦いの中心を,動員から,兵站までの全体像を描いたとき,重要なのは,後方活動や机上の仕事を受け持つ吏僚の役割であり,兵站の確保が大切になる。
敵軍を圧倒するために,秀吉軍の動員兵力は合戦を経るごとに,加速度的に増大していく。三木城・鳥取城・高松城の攻城戦では,2万~2万5000人だったのが,賤ヶ岳の戦いでは5万人,小牧・長久手の戦いでは7万人,四国攻めや越中攻めでは10万人,九州攻めや小田原攻めでは,20万人,文禄・慶長の役では30万人が動員されている。
兵数が増大するほど,兵站が難しくなるのは言うまでもない。兵站を担ったのは,一貫して吏僚派奉行であり,
三成・吉継が中心をになった。合戦の場で,吏僚の存在感が増して言った,と著者は想像する。このあたりに,武断派と文治派の対立の根を,著者は見ている。
そして,著者はこう最後で締めくくっている。
秀吉家臣団は,秀吉が一代で築きあげたものである。しかもその主なファクターは,信長の与力,新しい領地での在地武将,旧信長家臣,外様大名といった外部から加わった新戦力であった。彼らの忠誠は強烈なカリスマ性をもつ「秀吉」個人に向かっていたのであり,それが「豊臣家」への忠義となるには,時間が足りなかった。
要は,秀吉の個性によって,つないできた統一のタガは,彼の死によって,信長が急死ししたとき,秀吉がそうしたように,次の天下取りに近いものへと,靡いていくのは,当たり前といえば当たり前だ。
それが徳川家康であったということだ。
家臣団全体を俯瞰してみるとき,大友宗麟が国元に送った手紙に,
内々の儀は宗易(千利休),公儀の事は宰相(秀長)
と言われており,政権内の実権は,この二人と,各大名との取次と呼ばれた役職との二重構造になっていて,取次として上杉,佐竹など有力大名との折衝を担ったのは,三成であった。
その意味で,中国戦線,九州攻め以降は,実質官兵衛は蚊帳の外にいたとみた方がいいようなのである。
家臣団肥大の中で,吏僚が政権内で力をつけていくのは,どの武家政権でもある。それが制度として政権維持にまで高度化される前に,秀吉の死去で,政権は瓦解していく。その中に官兵衛を置いてみたほうが,官兵衛が徳川へとシフトしていく理由も背景もよく見える。
泥鰌本の官兵衛ものに欠けている,家臣団の中での俯瞰とその位置づけは,ものをみるときの鉄則のように思えてならない。
参考文献;
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕』(ソフトバンク新書)
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