2013年12月29日
王統
水谷千秋『継体天皇と朝鮮半島の謎』を読む。
武烈天皇崩御の後,王位継承者が絶え,応神天皇から数えて五代目に当たる,越前三国に住む,普通なら天皇になれそうもない遠い傍系の王族が,五十七歳で,それまでの王統の血が絶えて,白羽の矢が立った。父も祖父も曾祖父も天皇ではない。
大和から越前まで派遣された使者は,一目見てこの人こそ天皇にふさわしい,
と感じたというが,即位して二十年間,大和盆地の外に都を置き続け,大和の磐余玉穂宮を都としたのは,亡くなる前五年から八年とされている。
それだけに,
実は王統の血は断絶しているのではないか,実は応神天皇五世孫などではなく,近江か越前の地方豪族で,王位を簒奪したのではないか,
等々と謎の大王とされている。
著者は,記紀と考古学の成果から,
地方に土着した傍系王族,
の一人と見る。たとえば,
播磨に土着した顕宗・仁賢兄弟は,履中天皇の孫,
継体の前に王位継承者候補となった倭彦王は,丹波にいた,
等々の例を挙げ,後年のような臣籍降下という制度がない時代には,どんな傍系でも王と名乗り,地方に土着していた,とする。継体は,そういう一人ということだ。
しかしほとんど晩年にいたるまで,大和に入れず,樟葉宮(枚方市),筒城宮(田辺市),弟国宮(長岡京市)と,大和盆地の外縁を転々としていく。
継体支援勢力は,大伴氏,物部氏,和邇氏等々だが,この豪族たちの本拠地は,大和盆地の東側であり,西側,つまり葛城氏の支配地域に,なかなか入れなかった,と著者は見ている。
ただ,継体天皇の背景に,渡来人が深くかかわっている,と著者は見る。その一例として,和歌山県の隅田八幡宮の人物画鏡の銘文に,
癸未年八月曰十大王年男(孚)弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣開中費直穢人今州利二人尊所白上同二百桿所此竟
とあり,
曰十(おそ)大王の年,男(孚)弟(おふと)王,意柴沙加(おしさかの)宮にいますとき,斯麻,長く奉(つか)えんと念(おも)い,開中費直(かいちゅうのあたえ),穢人今州利(えひといますり)の二人の尊を遣わして白(もう)すところなり。同二百桿を上め,此の竟(かがみ)を作るところなり,
と読める。503年,継体の即位する四年前,斯麻王則百済の武寧王が,意柴沙加宮(忍坂宮)にいたとき,この鏡を送ったと解釈されている。
そのつながりは,武寧王の棺は,日本にしか生息しない高野槇でつくられていたことからも,知れる。しかも,訃報をきいてから送ったのでは間に合わない。生前から,調達する手はずが整っていたのではないか,と見られている。
五経博士の倭国への派遣,
百済の軍事的応援,
等々,継体期の百済との深い関係を考えると,渡来人を介した,深い関係が推測されるのは間違いない。
しかし,この継体天皇即位の経緯を見ると,邪馬台国の卑弥呼の死後,国が乱れた後,宗女壹與(台与)を立てて修めたことを思い出す。倭人伝に言う。
卑弥呼の死後,男の王が立つが,国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。
卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。
と。つくづく,邪馬台国,倭国,ヤマトと,つづく王権の流れが,シャーマニズムというか,宗教的権威というか,血統というシンボルというか,がないと収まらないらしいことを,思い知らされる。
ただの馬の骨が天下を制しても誰もついて行かない,というか,いつも自分たちのオーソライズに利用することをし続けてきた,ということなのかもしれない。
いまもそれは続いている。
横井小楠の,
人君なんすれぞ天職なる
天に代わりて百姓を治ればなり
天徳の人に非らざるよりは
何を以って天命に愜(かなわ)ん
堯の舜を巽(えら)ぶ所以
是れ真に大聖たり
迂儒此の理に暗く
之を以って聖人病めりとなす
嗟乎血統論
是れ豈天理に順ならんや
という詩がいまも意味があるのはそのせいだろう。いつになったら,この呪縛から解かれるのか,あるいは,永遠に続くのか,気になるところだ。
参考文献;
水谷千秋『継体堪能と朝鮮半島の謎』(文春新書)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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