責任
責任の取り方を知らないものは,ヒトの責任の取らせ方も,自分が責任を取るとはどういうことかをも弁えない。だから,いったん人が責任を取ったことで決着したことを蒸し返す。そして,リセットしたがる。
日本に多いのは,
一億総懺悔
のように,誰もが悪いというカタチにすることだ。これは,誰も責任を取らないということだ。すべての人のせいにするということにひとしい。
そういう無責任な人ほど,
自己責任
として,個人に押し付け,見捨てる。その当の本人は,イラクについても,原発についても,一切の責任を取らない。いまどき原発ゼロを安全な圏外から叫ぶのは無責任そのものでしかない。
一億総懺悔と自己責任は,
無責任体制を示す双極といっていい。
リスボンシビリティとは,結果責任と言われるが,そうではない。これを有言実行の意味だと言った人がいるが,だからこそ,結果責任なのだ。
自分の責任で決断し,自分でその責を負う,
という人を昨今見かけたことがない。
かつて勝海舟は,行蔵は我に存す,毀誉は他人の主張,とうそぶいたが,それだけの責任を一身に背負い,幕臣の戦後処理を続けた。こう言う人を見かけない。
勝にとって一身を賭けて譲った国家が,私されるのを厳しく批判し,伊藤博文らの批判者であり続けた。
戦後体制を壊し,アンシャンレジームを目指すのは,それこそ無責任なもののすることだ。戦後体制は,
第二次世界大戦を始めたもののけじめ,
である。このけじめすら取れないものに,世界に伍して発言していく資格はない。
靖国も,憲法改正も,
結局一度もきちんと責任をとらない,取らせることができない国民であることを,世界に標榜することでしかない。
戦後一貫して,なし崩しに,戦後のけじめをぐじゅぐじゅにしてきた総仕上げといってもいいのかもしれない。しかし,その瞬間,日本という国は,結局,何百万,何千万の人間を殺し,あるいは苦しめた責任を,取らないのだと宣言することに等しい。
人のせいにして始めた戦争の責任のけじめの取りようがないのと同様,人に押し付けられた戦後体制ということにして,結果として,また責任を放棄する。
これがけじめであり,
たとえそれが擬制であったとしても,それを受け入れて,続けていくことが自分のした始末のけつをぬぐうことだという,当たり前のことさえわからぬ人が多いことに,僕は恥ずかしい。
それは,結局,
負け,
を一度も受け入れられず,負けたふりれをしていただけということだ。これは,卑怯者のすることだ。女々しいとはこういうことを指して言う。
負けとは,あるいは全面降伏とは,その時点で,自分を捨てることだ。両手を上げるとはそういうことではないのか。
そのはずだ。降伏文書に署名するというのはそういうことだ。
負けた以上,その責任を誰かが取らなくてはならない。恥ずかしいことに,自分が責任者だと,自裁した人は,ほんのわずかしかいない。そのこと自体,さむらいなどという言葉を二度と使ってほしくないほど,恥ずかしい。
ようやくけじめとして責任を取らせたはずなのに,それ自体不当という,認めないという。
ではもう一度戦い直すのか,その勇気もない。
にもかかわらず,卑怯にも,その後ずっと一貫して,そのけじめをなかったことにしたがってきた。そして,その責任を取らせたはずのモノを復権させようとしてきた。それは,負けの撤回に等しい。恥ずかしくないのだろうか。
だろうな,でなければ死んだ者(殺したもの,死に追いやったものとはあえて言わない)に顔向けできないはずだ。そしてそのことをかみしめている人は,黙って,語らない。沈黙している。
それをいいことに,…
やめよう,きっと馬の面にションベンだ。
僕は恥ずかしくて仕方がない。そういうひとが,臆面もなく,さむらいなどということばをいい,責任などということばをいうことに。
いずれ,早晩,また臍をかまされるに違いない。
しかし,また一億総懺悔か自己責任だけがまかり通るのだろうか。
それだけはなしにしなければならない。歴史は,一度目は悲劇だが,二度目は茶番だ。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#一億総懺悔
#自己責任
#責任
#悲劇
#茶番
この記事へのコメント